朝倉景連

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朝倉 景連(あさくら かげつら、生年不詳 - 永禄9年(1566年)?)は戦国時代の武将。朝倉氏一族。同名衆。玄蕃助と称す。父は朝倉景伝(景宗)。朝倉山城主。

代々一乗谷奉行人として活躍し、朝倉義景の代は前波景定小泉長利河合吉統らと共に執務に当っている。また、但馬国の赤渕神社に書状を送るなど外交面でも貢献したと伝わる。

説が複数あるが、いずれも確かな証拠は無くよくわかっていない。

景伝

朝倉玄蕃助家は朝倉孝景以前に分かれた庶流だが、系譜上どのように繋がるか判明していない。官途は玄蕃助から越中守に改めるのが通例だったらしい。曽祖父までの系譜が明らかになっており、

朝倉景連-景理景伝-景連

景連の後は明らかになっていない、という説がある。

景宗

朝倉氏景の子で、朝倉貞景と兄弟の朝倉景宗という説もある。

略歴

弘治元年(1555年)の朝倉宗滴を総大将とした加賀一向一揆攻めに従軍、津葉城を落とす活躍を見せた。永禄4年(1561年)4月6日に、義景犬追物を開催した際に、奉行職に任じられた景連は500余人の家来と共に、主君の義景を上回る豪勢な主従のいでたちで現れ、周囲を驚かせた。

永禄5年(1562年)に義景の妻「近衛殿ノ御息女」の叔父大覚寺儀俊をもてなす為に開かれた宴の記録にも、景連の名が見える。だが永禄9年(1566年)を最後に奉行人から名が消え、永禄11年(1568年)の足利義昭の義景亭御成りの際にも伺候した同名衆の中に入っていない。恐らく永禄9年中に没したのではないか。

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