日大数学科事件
日大数学科事件(にちだいすうがっかじけん)は、当時勤務していた教職員が辞表を要求され暴行された事件である。
経緯
文理学部数学科
1962年(昭和37年)11月に日本大学文理学部数学科の助教授であった福富節男、木下素夫。専任講師であった銀林冶、倉田令二朗。4名が文理学部長から「思想に合わないから来年三月迄に辞表を出してくれ」と辞表を要求された[1]。
理由として、投書に内容の意味不明な事柄が書かれていただけであった。そのため、4人は辞職要求を拒みつつ、日大にみきりをつけるため新たな就職先を探した。福富節男は東京農工大、銀林冶は明治大に就職が内定したが、倉田令二朗だけは一且内定していた東京理科大数学科だったが転職理由が不明のため概定にならず、木下素夫と倉田令二朗だけがひき続き職員として日大に留まってしまった。(※1963年の1月から3月にかけての話である)[2]
3月には同学科の助手1人が何の理田もなく解雇され、さらに、非常勤講師2人が次年度から担当するはずだった講義をはずされた。また木下素夫や倉田令二朗も、諸手当を除いた基本給のみしか支給されないほどの不当な待遇を受けた[2]。
その後、11月に、東京農工大に転職していた福富節男が日大文理学部に残された私物を取りに行った際、日大職員から白昼の公道で暴行を受けるといった事件が起きる[2]。
これを受け、即急に福富節男は当時の秋葉安太郎学部長に抗議文を送り、謝罪や暴行者に対する措置の返答を要求したが、誠意のある返答はされなかった。また、在籍している学生に対しても規制や制限をし、1964年6月には学内活動で目立った学生2名を退学処分にしている[2]。
脚注
- ^ “1968年全共闘だった時代”. 日大闘争年表 . "1962年(昭和37年)の項を閲覧。"
- ^ a b c d “学術会議"日大事件"に乗り出すー学問、思想の自由委で検討- 無視し得ぬ「大学不在」 数学者間の署名も拡大”. 東大新聞. (1965年2月22日付)
関連項目
- “日大闘争ドキュメント 前史1958-1965”. 日大全共斗経斗委HP