新王婕妤

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婕妤王氏(しょうよ おうし、1105年?[1] - ?)は、北宋徽宗の妃嬪。徽宗には他にも王姓の婕妤がおり、その区別のためもあって新王婕妤あるいは大王婕妤と呼ばれる。

生涯[編集]

婕妤より低い位。正三品)の位を授けられた。宣和7年(1125年)、趙相(韓国公)[2]を産んだ。

靖康の変後、に連行され、金軍の多くの兵士に凌辱されて妊娠した。金に到着後は、妊婦だったことを考慮されたため、連行途中で出産した小王婕妤や他の4人の妊娠させられた妃嬪[3]と一緒に、昏徳公(徽宗)のもとに帰された。翌年(金の天会4年、1127年)春、1人の子供を産んだが、詳情の記載がない。

以後、その子供たちの記載はない。新王婕妤は、南宋と金の国交が回復した時(1162年)まで、金で暮らしていたことが伝わっている。

子女[編集]

  • 趙相

他、不詳

伝記資料[編集]

  • 『靖康稗史箋證』
  • 『三朝北盟会編』
  • 『宋会要輯稿』

脚注[編集]

  1. ^ 『開封府状』によれば「新王婕妤二十二歳」
  2. ^ 趙相は、靖康の変以前の徽宗の最年少の男子である。『宋史』には伝がない。『靖康稗史箋證』によれば「韓国公相三歳、即小皇子」、また『宋会要輯稿』によれば「宣和七年八月四日、詔婕妤王氏隆誕、親属可依下項推恩」。
  3. ^ 婉容閻宝瑟・才人周春桃・才人狄金奴・才人邵元奴