拓跋虔

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拓跋 虔(たくばつ けん、生年不詳 - 396年)は、北魏皇族。陳留王。

経歴[編集]

拓跋什翼犍の子の拓跋紇根の子として生まれた。若くして勇名で知られた。登国初年、陳留公の爵位を受けた。389年(登国4年)、後燕慕容垂のもとに使者として立った。391年(登国6年)、衛王拓跋儀とともに黜弗部を撃破した。また劉衛辰に対する征討に従った。393年(登国8年)、西燕慕容永が長子で後燕の攻撃を受けると、北魏に救援を求めてきたため、拓跋虔は庾岳とともに慕容永を救援した。395年(登国10年)、後燕の慕容宝が北魏に侵攻してくると、拓跋虔は東を扼して、後燕軍の左翼と対峙した。その後、北魏軍は参合陂の戦いで後燕軍を撃破した。396年皇始元年)、慕容垂が先年の報復のために桑乾川に進軍してくると、拓跋虔は敵を軽んじて挑み、戦没した。桓王と追諡された。

子女[編集]

伝記資料[編集]