忍足佐内

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忍足 佐内(おしたり さない、享保13年(1728年) - 明和8年11月29日1772年1月3日))は、江戸時代中期の農民安房勝山藩金尾谷村(現在の千葉県富浦町)の名主。通称は善兵衛。重税に悩む農民を救うため、勝山藩の江戸藩邸に直訴し、処刑される。しかし、所領を支配する奉行の不正が認められ、後に名誉が回復される。現在も義民として慕われている。

忍足佐内事件

明和の頃、天災や凶作が続き、全国的に百姓一揆や打ちこわしが起こっていました。特に明和7年(1770年)の干ばつでは作物が実らず、農民は大変苦しんでいた。安房国勝山藩領もその例外ではなく、それぞれの村の名主たちは勝山の役所へ訴えて、年貢の減免を願い出た。これに対し、奉行稲葉重左衛門代官藤田嘉内が、被害の様子を調べたものの、金尾谷村と白坂村(どちらも富浦町)、そして小原村の三か村だけは、役人に対する賄賂をしていなかったため、訴えが認めてもらえず、農民に大きな負担がかかった。

願いが認められなかった三村のひとつ金尾谷村の名主の忍足佐内は、小原村の名主・平兵衛と一緒に、村人を救うために藩主の江戸屋敷に行き、村人が困っていることや、奉行の悪政を訴えた。

奉行らは、このことで佐内を恨み、勝山の牢屋に閉じ込めて置き、明和8年(1771年)、悪政が発覚することを恐れて、後に佐内らは白塚川原で処刑されてしまった。享年44。これらの事件が忍足佐内事件、又は勝山藩西領騒動ともいう。

これに対して、忍足佐内の遺族らは奉行や代官の悪政を訴え、佐内の汚名返上を願い出た。この願いは藩により聞き入れられ、奉行や代官の悪事を認め、佐内の名誉が回復された。

関連項目