徴崇
徴 崇(ちょう すう、? - ?)は、中国後漢末期から三国時代の呉の政治家。字は子和[1]。元の名は李崇という。司隸河南郡の人。
生涯
徴崇は『易』や『春秋左氏伝』を修め、加えて讖緯の学にも精通していたという。
世の中が乱れるようになると、姓を変えて会稽へ隠遁し、みずから田畑を耕して心のままの生活をおくった。徴崇に心を寄せる者たちがやって来て学問を受けたが、教えるのは数人だけで、それ以上になると弟子入りを断ることにしていた。学生たちの学業が一人残らず大成するようにと願って、弟子を多くは取らなかったという。徴崇が交わりを結んだのは、丞相の歩騭といった人物たちで、その交わりはみな心のこもったものであった。
厳畯は、徴崇の行ないは人々を励ますに足り、その学問は師と仰ぐに足るとして推挙し、呉に仕えた。程秉が太傅であった当時、徴崇は率更令だったという[2]。
はじめて太子の孫登に目通りしたときには、病気であるので拝礼はせずともよいという特別な許可を受けた。東宮の官僚たちはみな徴崇に助言を求め、孫登はしばしば珍しい話について徴崇の意見を求めたという。
年70で、徴崇は死去したという[3]。