徐防

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徐 防(じょ ぼう、生没年不詳)は、後漢政治家は謁卿。本貫沛国銍県

経歴[編集]

徐憲の子として生まれた。若くして父祖の伝える易学を習った。永平年間、孝廉に察挙され、郎に任じられた。徐防は容貌が誇らしくおごそかで、応答に見るべきものがあったので、明帝はこれを珍しく思って、特別に尚書郎に抜擢した。徐防は枢機をつかさどる職務にあって、細心周到につとめ、明帝と章帝に仕えて失態を犯さなかった。和帝のとき、司隷校尉に転じ、魏郡太守として出向した。98年永元10年)、少府大司農に転じた。

102年(永元14年)11月[1]司空に任じられた。104年(永元16年)10月[1]司徒に転じた。106年延平元年)1月[2]太尉に転じ、太傅張禹とともに録尚書事をつとめた。

107年永初元年)[3]、龍郷侯に封じられた。9月[4]、災害や反乱が相次いだことから、徐防は太尉から罷免され、封国に赴いた。三公が災異のために免官されたのは、徐防を初例とする。

後に徐防は死去した。

子女[編集]

  • 徐衡(後嗣となるべきであったが、弟の徐崇に封を譲った)
  • 徐崇(兄の徐衡に封を譲られた。数年後、やむをえず龍郷侯の爵位についた)

脚注[編集]

  1. ^ a b 後漢書』和帝紀
  2. ^ 『後漢書』殤帝紀
  3. ^ 『後漢書』張禹伝に張禹や尹勤と同日に封じられたという。
  4. ^ 『後漢書』安帝紀

伝記資料[編集]