張特

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。219.106.119.67 (会話) による 2011年10月20日 (木) 08:04個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

張 特(ちょう とく、生没年不詳)は、中国三国時代武将子産

経歴

幽州涿郡の人。曹叡の時代から魏に仕えて牙門将軍に任じられた。後に合肥新城の守将に任じられる。

諸葛恪が合肥に攻めてきたとき、兵の半分が病気にかかったり戦死し、城壁の一部が呉軍によって破壊され、落城寸前となった。張特はこのまままともに戦っても勝機は無いとして、諸葛恪に対して「魏の法では、城を100日守れば、その武将は敵に降伏しても罪にはならず、家族が処刑されることもない。数日したら100日になるので、それから降伏する」と述べた[1]。諸葛恪はこれを信じて、城の攻撃を中止する。

ところが張特は、その間に密かに城壁を修復し、呉軍に徹底抗戦を始めた。このため、諸葛恪は激怒して城を攻めるが陥落させられず、呉軍内部で疫病が流行ったため、撤退した。

この功績により張特は雑号将軍となり、列に封じられ、安豊太守となった。

脚注

  1. ^ 「百日守れば罪を問わない」しきたりそのものは事実で、271年西晋の楊稷らを呉の陶璜らが攻めた時、事情を汲んで百日たった後に降伏させている。