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張任

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姓名 張任
時代 後漢時代
生没年 生年不詳 - 213年建安18年)
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 益州蜀郡
職官 従事
爵位・号等 -
所属・陣営等 劉璋
家族・一族 〔不詳〕

張 任(ちょう じん、? - 213年)は、後漢末期の劉璋配下の武将

元々は貧しい家の出だったが、文武に優れた能力を発揮し、益州の従事となる。

当時隣の荊州を支配していた劉備が益州に攻め込んでくると、冷苞鄧賢たちと共に劉備の軍を迎え撃つが、で打ち破られ雒(らく)城に退去した。雒城で劉璋の息子である劉循と共に篭城するが、金雁橋に出撃した際に再び劉備の軍に敗れ捕虜となる。

劉備は彼の忠勇を高く評価し、何度も臣従を勧めたが、張任は「老臣は決して二君に仕えるつもりはない」と言い、決して降る事がなかった。そのため最期には首を刎ねられた。

劉備は敵ながら最後まで勇敢に戦い、忠義を曲げなかった張任に感服し、遺体を金雁橋の傍に埋葬して、墓の傍に石碑を立てこれを讃えたという。

「張任墓」が四川省広漢市北外郷に現存する。県級文物保護単位。しかし1964年の発掘調査では元康 (晋)6年の年号が書かれた磚が出土しており、晋代の別人の墓である可能性がある。

石碑

金雁橋の傍らに建てられた石碑には、張任の忠勇を称える碑文が刻まれている。  

烈士 豈に甘んじて二主に従えんや
張君が忠勇 死してなお生けるが如し
高明なること 正に天辺の月の如く
夜々 光を流してラク城を照らす
烈士たるもの どうして二君に仕えることがあるだろうか
張任の忠勇は (張任が)死んでもまだ生きているようだ
(張任の)高明さは まさに天の月のようで
毎晩 光を流してラク城を照らしている 

演義での張任

小説『三国志演義』における張任は、正史における忠義を評価されてか、劉璋陣営では非常に華々しい活躍をする。

劉備の入蜀の際には同僚たちと共に劉備の危険性を説き、入蜀に反対するが劉璋には聞き入れられない。劉備軍の軍師である龐統が、宴会の席で劉璋を殺害しようと魏延に剣舞を舞わせた際、陰謀を察知し劉璋を守るため、魏延と共に舞うなど鴻門の会宛らの立ち回りを見せる。

劉備が益州征服の野心を露にしたとき、雒城に立て籠もって劉備軍を防ぎ、これを大いに苦しめている。その際、落鳳坡(現在の四川省徳陽市)で白馬(的盧であるとは、『演義』では明言されていない)に乗った龐統を射殺するなどの活躍をする。しかし後に、援軍に来た諸葛亮の計略により金雁橋に出撃したときに敗北し、囚われの身になってしまう。

その後は正史と同じく、劉備に降伏を勧められるがそれを拒否、劉備は張任を殺害するのを躊躇うが、最期は諸葛亮によって処刑されてしまう。

参考文献