嵯峨御流
嵯峨御流(さがごりゅう)は、嵯峨天皇を開祖とする華道の一派である[1]。「華道嵯峨御流」とも言われる。
発祥
第52代嵯峨天皇(延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日))が弘仁の時世に、嵯峨離宮(現、大覚寺)に宮殿を構え、離宮内に造営された大沢池の菊ガ島に自生していた嵯峨菊を手折り、殿上の花瓶に挿されたことが発祥と伝わる。伝承によると、そのとき嵯峨天皇は「後世、花を生くるものは宜しく之を以て範とすべし」と言われ、華道の普及を進めたという。[2]。
嵯峨天皇の離宮(嵯峨院)は、その後亀山上皇や後宇多上皇による院政の舞台となり、嵯峨御所と呼ばれるようになる。江戸時代末期には未生流を学んだ未生斎広甫が活躍した[3]。文政12年(1829年)に「嵯峨御所華務職」に就いた未生斎広甫は華道の普及につとめ、「華道家元」を名乗るまでになった[4]。その結果、大覚寺の華道(後の「嵯峨御流」)は全国的に名が知れ渡るようになった。
- 目黒雅叙園「いけばな×百段階段2018」作品
脚注
- ^ 実際には嵯峨天皇が開祖とされているが、古くから華道を行っていた家元大覚寺が開祖である。
- ^ 嵯峨天皇は、「花を生けるものは宜しくこれをもって範とせよ」と述べたとも伝わる。
- ^ 未生斎広甫は、但馬国で生まれ、未生斎一甫にしたがって摂津国大阪に移った。そこで一甫とともに未生流を基盤を築いた。幼名安太郎。
- ^ 井上治「嵯峨御流史(4)」『華』(2016年冬号)