岩手信猶

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岩手信猶
時代 江戸時代
生誕 不明
死没 享保17年閏5月2日(1732年6月23日
別名 藤左衛門、千五郎
幕府 江戸幕府
氏族 岩手氏(武田氏)
父母 父:岩手信安 養父:岩手信上
岩手信上養女
岩手信方植村泰頼
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岩手 信猶(いわて のぶなお、? - 享保17年閏5月2日(1732年6月23日))は、江戸幕府旗本。通称は藤左衛門、千五郎。

略歴[編集]

元は紀州藩士岩手九左衛門信安(のぶやす)の子で、岩手信上(のぶたか)の養子となって、元禄16年(1703年)11月27日に岩手家を継ぐ[1]宝永元年(1704年)、将軍・徳川綱吉との初の御目見えを果たす[1]

小普請であったが、享保7年(1722年)6月27日に代官に任じられ、武蔵野新田の支配を承り、相模国酒匂川の普請事業などに携わる[1]。享保11年(1726年)8月晦日、支配地の農民が御禁制であった鉄砲を撃った咎で謹慎を命じられるが、10月晦日に許される[1]

享保17年閏5月2日、逝去。法名は日忠。信猶の妻女は元は細井助九郎の娘で、信上の養女となって信猶に嫁ぐ[1]

関東支配代官[編集]

信猶が享保7年6月27日[2]に関東支配の代官に任じられた際、町奉行の配下に属することになった。通常は代官は勘定奉行の配下となるが、当時町奉行であった大岡越前守忠相中山出雲守時春の2名が、同年7月に関東の農政を掌る関東地方御用掛に任命されたため、その配下として働くべく5万石支配を命じられたのである[3]。同年7月13日には、荻原乗秀[4]も関東筋新規御代官を拝命して5万石支配を命じられ役料300俵を与えられた際に、信猶も役料300俵を与えられる[3]

享保7年7月28日に、武蔵野新田支配を開始[5]。享保12年(1727年)9月に、代官配下の元締手代を務めていた野村時右衛門と小林平六[6]が新田開発方役人に任命され武蔵野新田の経営を行うが、享保14年12月に年貢の滞納や多額の引負金を理由に罷免・追放される。小林と野村の追放後、2人が支配していた新田場は信猶と荻原が支配を担当することとなり、現地の百姓たちから反発された年貢増徴政策を修正するが、新田場経営はなかなか安定せず、年貢の未進・遅滞が続いた。

相模国小田原藩にある酒匂川は、信猶と同じ大岡支配下の役人である田中喜古蓑正高によって普請工事が成された後、享保12年から川の西岸は信猶の支配地とされた。しかし、西岸に比べ小田原藩領である東岸は治水が不十分で後に堤防が決壊したため、沿岸の村民たちは幕府代官支配へと替えてくれと訴願する。享保17年4月に要求が通り、両岸ともに信猶の支配地となった。

信猶は享保17年5月に、在任中に死亡。死後、信猶が担当していた酒匂川両岸地域は、荻原乗秀の預かりを経て蓑正高の支配となった。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 『新訂 寛政重修諸家譜』第三 166頁
  2. ^ 徳川実紀』と『柳栄日次記』では6月28日。
  3. ^ a b 『撰要類集』。
  4. ^ 元禄の改鋳を実施した勘定奉行・荻原重秀の子で、岩手と同様、前身は小普請。
  5. ^ 武蔵国多摩郡柴崎村(立川市)の御用留より。この史料には、野村時右衛門が信猶の元〆(元締)手代を務めていたことも記されている。
  6. ^ この2名は元浪人で、上総国東金領(千葉県東金市)の開発を目安箱へ投書したとされる人物。

参考文献[編集]