小砂焼
小砂焼(こいさごやき)は栃木県那須郡那珂川町にて焼かれる陶器磁器半磁器。
沿革
水戸藩主、徳川斉昭が1830(文政13?)藩主になった翌年に、殖産興業政策として、陶土を探させる。 同年、12/10に小砂に陶土発見。(同政策より、常陸大田でも発見されている。)
- 1831(天保2)
- 通事伊藤友寿を京都に派遣、陶業の研究をさせる。甕説
- 1833(天保5)
- 瓦屋(現 茨城県水戸市瓦谷)で、築窯。
- 1834(天保6)
- 陶器出窯開始(4/26)
- 1838(天保9)
- 七面(神崎)に移動(瓦谷は廃止される)
- 1840(天保11)
- 小砂/町田/七面の体制になる。
- 1841
- 唐津より、陶工 伝五郎を招く
- 1851(嘉永4)
- 大金彦三郎により御用瀬戸試焼開始 (小砂焼の始まり)
- 1896(明治29)
- 村立大山田工業補習学校開設
- 1898(明治31)
- 小砂焼製陶講究所開設
- 1901(明治34)
- 会津本郷より岩田新吾招聘。磁器焼成開始
- 1907(明治40)
- 下野陶器株式会社設立。磁器大量生産
藩窯 ( 当時の資料では、御用瀬戸 御用陶器焼 と表現)して庇護されており。高札原稿が残されている。 [1] [2]。
現在も那珂川町小砂地区には数軒の窯元が存在し、閑静な焼き物の里を築き、日用雑器を焼き続けている。近郷には馬頭温泉郷があり、土産物向けの食器も多い。
特徴
小砂焼の特徴として、陶器、磁器(おもに青磁)、半磁器(国山窯のみ?)ともに作成されている。 陶器の特徴は何と言っても「金結晶」と呼ばれる黄金色の釉薬であり、素朴な意匠ながら瀟洒な上品さがある[1]。他に桃色がかった辰砂釉も特徴的[1]。
その他
徳川斉昭の殖産興業政策の一環として、那珂湊の反射炉を建造(1856 嘉永7)した際に、小砂の陶土を利用している。 また駅弁のお茶の容器が陶製だったころには、小砂でも量産されていた。 那須の御用邸の青磁のいくつかは、小砂焼である。
モースコレクションにも、小砂焼があるが、kosunaと表記されている。 (Catalogue if the morse collection of japanese pottery の113ページ)