小田顕家

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小田顕家(おだあきいえ)

小田顕家 (常陸国)[編集]

小田顕家(おだあきいえ、? - 明応5年(1496年)?)は、戦国時代の人物。小田成治の子。小田治孝の弟。北条城を領有したため北条顕家とも呼ばれる。

成治の次子であったが、1496年ごろに家督争いを起こし、兄の治孝を殺害した。そのため、成治は小田政治を当主とした。政治は成治の実子で顕家の弟とも養子で足利政知の実子ともいわれる。まもなく顕家も追討され滅ぼされたといわれるが、その末路は詳しくは分かっていない。

小田顕家 (武蔵国)[編集]

小田顕家(おだあきいえ、? - 天文8年1539年)?)は、戦国時代の人物。小田朝興(家時)の養父。種垂城騎西城城主。大炊頭。
騎西城主の小田氏は常陸小田氏の一族とされ、上記の常陸国の顕家との活動時期は重複するものの、その関係は不明である。
墓所には「源顕家」と表記されているため本姓藤原の常陸小田氏とは別系の可能性もある。

文亀年間ごろに騎西城に移ったといわれる。のちに成田氏当主である成田親泰の子の宗長(のちの朝興(家時))を娘婿とし隠居した。

雲祥寺の開基。墓所も雲祥寺にある。