富田景政

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富田 景政(とだ かげまさ、大永4年(1524年) - 文禄2年8月8日1593年9月3日[1])は、戦国時代の武将。通称は治部左衛門。

富田景家の三男で、眼病を患ったため剃髪した兄・富田勢源より家督を譲られた。はじめ越前朝倉氏に仕えていたが、その没落後は前田利家に仕え、後に七尾城の守将となる。賤ヶ岳の戦いで子の景勝が戦死すると、同じく朝倉氏に仕えていた山崎景邦より養子を迎えた。この養子が後に「名人越後」と称される富田重政である。

弟子には一刀流の流祖・伊藤一刀斎の師となる鐘捲自斎(富田勢源の弟子との説もある)がいる。また豊臣秀吉の甥である秀次に剣術を指南した。

関連項目

脚注

  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus

参考文献

  • 「歴史読本 特集 秘伝!武芸流祖録」、新人物往来社、152-153頁、1993年11月号。
  • 「別冊歴史読本 読本シリーズ7 日本伝承武芸流派読本」、新人物往来社、58-65頁、1994年。