守住周魚

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守住 周魚(もりずみ ちかな、本名:守住 タイ、1859年3月15日安政6年2月11日) - 1925年大正14年)9月3日)は、日本日本画家。父は守住貫魚。兄に守住勇魚がいる。

生涯[編集]

安政6年(1859年)に守住貫魚の六女として阿波国徳島(現在の徳島県徳島市)に生まれる。周魚は画号であるが、の魚と周の字を分解してつけたという。明治13年(1880年)に父とともに大阪へ出て、それ以降の生涯を大阪で過ごした。父・貫魚は、次男である勇魚が洋画を学んだため、周魚を後継者に望み、明治18年(1885年)に別家させた。

明治17年(1884年)、大阪絵画品評会で四等賞受賞。明治19年(1886年)、東洋絵画共進会、三等褒状受賞、石川県私立絵画品評会、二等褒状受賞。明治23年(1890年)、第三回内国勧業博覧会、褒状受賞、浪華学画会絵画共進会、銅印受賞。明治25年(1892年)、日本美術協会、褒状三等受賞。明治30年(1897年)、日本美術協会大阪支部第二回美術展覧会、逸品褒賞受賞。明治34年(1901年)、扶桑絵画協会、二等褒賞受賞。明治36年(1903年)、東洋美術奨励会、特別賞受賞。

明治21年(1888年)小学校図画教科書『小学大成普通画本』を手がける。明治30年(1897年)には日本美術協会大阪支部の技芸員に嘱託された。明治34年(1901年)頃、大阪で女性南画家30余名で「彰施会」を組織し、時折展覧会を開いたという。こうした活躍から「浪華閨秀画家の白眉」と称された。

参考資料[編集]

  • 小川知子 「女性画家と大阪 --文人画から美人画まで、女性たちは大阪画壇を蘇らせるか?--」」『美術フォーラム21』17号特集「 「大坂画壇」は蘇るか?--「綺麗なもん」から「面ろいもん」まで」、2008年、69頁、ISBN 978-4-925-18528-8