孟昶

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後主 孟昶
後蜀
2王
王朝 後蜀
在位期間 934年 - 965年
姓・諱 孟昶
保元
諡号 恭孝
廟号
生年 919年
没年 965年
孟知祥
年号 明徳 : 934年 - 937年
広政 : 938年 - 965年
※初名は仁賛

孟 昶(もう ちょう)は十国後蜀の第2代君主。後世の史家からは後主と称されている。

生涯

孟昶孟知祥の第3子として生まれ、若い頃は行軍司馬を務め,孟知祥が後蜀の皇帝を自称すると東川節度使に封じられた。

934年孟知祥崩御により即位すると、不法をほしいままにしてきた旧臣の李仁罕張業らを誅殺し、農業養蚕を推奨し、科挙を実施して国内の安定を図った。また諫言を重用することでの政治改革も実行している。 また、孟昶は文化を愛好した君主で、彼の後宮には花蕊夫人のような、詩才に優れた女性もいた。 しかし晩年は奢侈に溺れ、国政を省みず、また民間の女性を選抜して後宮を拡張し、名宝の蒐集に力を注ぐなど朝政は大いに乱れた。

955年には西北四州が後周に奪われるなど、その領域も次第に周辺から侵食され、964年には北宋の来攻を受けるに至り、翌年の965年に降伏したことで後蜀は滅亡した。

亡国後は検校太師兼中書令、秦国公に封ぜられ、開封で没した(毒殺説もある)。死後は楚王に追封され、諡号として恭孝が贈られている。

年号

先代
高祖
後蜀皇帝
第2代:934年 - 965年
次代