コンテンツにスキップ

大河内輝剛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大河内輝剛

大河内 輝剛(おおこうち てるたけ、1855年1月16日安政元年11月28日) - 1909年明治42年)10月9日)は、日本の明治期の教育者、実業家、衆議院議員、歌舞伎座社長。勲六等大河内子爵家の一族。

経歴

[編集]

高崎藩主・松平輝聴の次男として生まれる。1871年(明治4年)頃、藩士宮部譲らと共に脱藩し鹿児島に行こうとしたが、江戸で藩兵に捕らえられ、高崎に護送されて城外の威徳寺に幽閉される。1872年(明治5年)3月〜11月東京の尺振八に就き英学修業。1873年(明治6年)1月〜翌年5月横浜在留米国人に就き英語学修業。1874年(明治7年)11月慶應義塾に入塾、1879年(明治12年)7月に学科卒業。1880年(明治13年)1月〜1882年(明治15年)7月工部大学校の英国人教師に就き英語学を修業。1883年(明治16年)〜1885年(明治18年)英国人ロイド氏に就き英学修業。併行して1881年(明治14年)3月〜1883年(明治16年)8月には慶応義塾幹事、1884年(明治17年)1月からは同塾教員を依託された[1]

1887年(明治20年)4月、広島県尋常師範学校校長に任命され、1892年(明治25年)6月24日に辞職[2]。同年に日本郵船会社勤務。近藤廉平の代理として大本営の御用を務める。1896年(明治29年)イギリス、ドイツなどを視察。1902年(明治35年)に衆議院議員に当選(以後当選2回)。1906年(明治39年)に歌舞伎座社長となるが、在任中に胃癌のため死去。墓所は青山霊園[3]

脚注

[編集]
  1. ^ 1872年以降の記述は、国立公文書館「種子島時中外三名尋常師範学校長並ニ教頭ニ被任ノ件」明治20年4月7日に添付された履歴書に依る。
  2. ^ 『官報』第2697号、明治25年6月25日。
  3. ^ 新聞集成明治編年史. 第十四卷』p.156

参考文献

[編集]