大月薫

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大月薰(おおつき かおる、1888年 - 1970年)は中華民国国父である孫文の日本人妻。

1898年神奈川県横浜市の中華街で孫文と初めて面会し、1901年に孫文は薫の父に求婚の申し込みを行ったがこのときには拒否されている。その1年後、孫文は薫に直接求婚、両名の婚姻が成立した。

1906年5月、二人の間に娘(宮川冨美子)が生まれたが、冨美子誕生の前に、孫文は中国に帰国し、その後薫とは離婚している。離婚後薫は2度再婚したが、その後も孫文との連絡を行っている。娘の冨美子は横浜市内の宮川家に養育され、薫は1970年に死去している。享年82歳[1]

2008年、冨美子の息子(孫文と大月薰の外孫)である宮川東一は『日本に遺された孫文の娘と孫』を発表している[2][3]

脚注