大原継麻呂

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大原 継麻呂(おおはら の つぐまろ、生没年不詳)は、奈良時代貴族。名は嗣麻呂とも記される。弾正尹大原桜井の子。官位は正五位下因幡介

経歴

淳仁朝天平宝字4年(760年)正月に従五位下坤宮少忠に叙任されるが、同年6月に光明皇后崩御したため坤宮官は廃止された。なお、光明皇后の葬儀にあたっては石川豊成らとともに前後次第司を務めている。天平宝字7年(763年伯耆守として地方官に転じたためか、翌天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では難を逃れている。称徳朝天平神護2年(766年)従五位上に昇叙される。

光仁朝初頭の宝亀元年(770年中務員外少輔に任ぜられて京官に復すが、宝亀3年(772年因幡介と再び地方官に遷った。宝亀8年(777年正五位下に至る。

官歴

続日本紀』による。

系譜

脚注

  1. ^ a b 鈴木真年『百家系図』巻55,大原真人

参考文献