壬生小家主女

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壬生 小家主女(みぶ の おやかぬしめ、生没年不詳)は、奈良時代女官から、のち宿禰官位正五位下・常陸国造。名は子家主女小家主少家主とも記される。

経歴[編集]

常陸国筑波郡の出身の采女で、尚膳として孝謙天皇(称徳天皇)に仕えていたことが分かっている[1]

淳仁朝天平宝字5年(761年)正月、正七位下から従五位下に叙爵される[2]

平城宮大膳職推定地出土木簡の「一号木簡(寺請木簡)」によると、天平宝字7年(763年)か8年の3月に、

寺請 小豆一斗 醤一十(斗か)五升 大床所 酢 末醤等(表)右四種物竹波命婦御所 三月六日(裏)

とあり、法華寺にいた孝謙上皇の側近の女官(「竹波(筑波)命婦」)の指示によって、天皇の食事用に、小豆、醤、未醤油、酢の支給が請求されていたことが分かる。「大床所」とは、清涼殿昼御座の御膳のことで、『続日本紀』によると、孝謙上皇は天平宝字6年5月に近江国保良宮より平城京に戻り、法華寺を御在所としている。

藤原仲麻呂の乱の鎮定および孝謙上皇の称徳天皇としての重祚に功績があったらしく、称徳朝天平神護元年(765年)正月、内位従五位下になり、勳五等を授けられている。この時は[3]。その後、に改姓したらしく、天平神護3年(767年)3月、天皇が薬師寺に行幸した際には、宿禰姓を授けられている[4]

神護景雲2年(768年)6月には、常陸国造に任命され[1]光仁朝宝亀7年(776年)4月には因幡国造浄成女とともに、正五位下に昇叙し[5]、地方豪族の娘としては異例の出世をしている。

官歴[編集]

注記のないものは『続日本紀』による

脚注[編集]

  1. ^ a b 『続日本紀』巻第二十九、称徳天皇 神護景雲2年6月14日条
  2. ^ 『続日本紀』巻第二十三、廃帝 淳仁天皇 天平宝字5年正月2日条
  3. ^ 『続日本紀』巻第二十六、称徳天皇 天平神護元年正月7日条
  4. ^ 『続日本紀』巻第二十八、称徳天皇 天平神護3年3月14日条
  5. ^ 『続日本紀』巻第三十四、光仁天皇 宝亀7年4月19日条

参考文献[編集]

関連項目[編集]

  • 采女
  • 稲蜂間仲村女…同時期に孝謙(称徳)天皇に仕えた女官。
  • 尾張小倉…同様に、采女の身分から女官になり、国造に出世している。