坂本重安

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2021年8月28日 (土) 17:32; 桂鷺淵 (会話 | 投稿記録) による版 (→‎生涯)(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
 
坂本 重安
時代 江戸時代前期
生誕 天正16年(1588年
死没 寛永21年6月7日1644年7月10日
別名 久五郎、小左衛門(通称
戒名 日住
墓所 東京都港区北青山の持法寺
幕府 江戸幕府
氏族 坂本氏
父母 父:坂本貞吉 母:折井次昌の娘
兄弟 重安貞俊
妻:小沢忠重の娘
後妻:阿倍重真の娘
養子:重治
実子:貞政
テンプレートを表示

坂本 重安(さかもと しげやす)は、江戸時代前期の旗本

生涯[編集]

坂本家は甲斐の戦国大名・武田家の遺臣で、徳川家康の関東入部の際、祖父の貞次相模国高座郡内(現在の神奈川県大和市周辺)で370石余の知行地を受けた。

慶長7年(1602年)、15歳の時に徳川秀忠に仕えて大番となる[1]。2度の大坂の陣に従軍し、大坂落城の際に首二級をとる[1]。寛永10年(1633年)2月7日、常陸国信太郡内に200石の加増を受け、570余石となる[1]

なお、異母弟の貞俊(権十郎)も秀忠に大番として仕えて別家(200石)を立て、大坂の陣でも戦功があったが[1]徳川忠長附属となったため、忠長が改易された際に浪人となり、寛永10年(1633年)に幕府から10人扶持を与えられている[1]。病のため、兄の重安の領地である深見村に閑居している[1]

寛永21年(1644年)没、法名は法常院殿日住居士[要出典]。はじめ高輪の長応寺に葬り、のち青山の持法寺に改葬した[1]

家督は養子の重治(重治の母は阿倍重真の娘[1])が継いでおり、重治はのちに大目付・寺社奉行など幕府の要職を務め、短期間ながら大名となった(深見藩)。なお、実子として側室(「某氏」)所生の貞政がおり[2]、重治が270石を分知して別家を立てている[1][2]

備考[編集]

  • 日本城郭大系』には、大和市深見字坊之窪付近の「坂本重安屋敷」が挙げられている。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.794、『新訂寛政重修諸家譜 第三』p.80。
  2. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.797、『新訂寛政重修諸家譜 第三』p.83。
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.794-795、『新訂寛政重修諸家譜 第三』pp.80-81。
  4. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.795、『新訂寛政重修諸家譜 第三』p.81。

参考文献[編集]