坂本貞吉

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坂本貞吉
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 弘治3年(1557年)
死没 慶長12年1月1日(1607年1月28日)
別名 宮内(通称
戒名 道順[注釈 1]
墓所 神奈川県大和市深見の仏導寺
幕府 江戸幕府
氏族 坂本氏
父母 父:坂本貞次
兄弟 貞吉山角正勝の妻
折井次昌の娘
重安貞俊
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坂本 貞吉(さかもと さだよし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。甲斐武田氏に仕えた後に徳川家康に仕え、江戸幕府旗本となった。

生涯[編集]

武田家家臣で、駿河国田中城の守備にあたっていた坂本貞次の子[1]。貞吉も武田勝頼に仕えた[1]。天正10年(1582年)に武田家が滅亡すると、父の貞次とともに徳川家康に召し出された[1]。徳川家では大番士となり、長久手の戦いに従軍した[1]

徳川家康の関東入部の翌年、天正19年(1591年)に「采地の御朱印」を発給されている[1](父の貞次が天正18年(1590年)に相模国高座郡で370余石を与えられている[注釈 2])。慶長5年(1600年)には上田合戦(第二次)に参加[1]

慶長12年(1607年)1月1日[注釈 3]、51歳で没[1]。知行地である相模国高座郡深見村(現在の神奈川県大和市深見)の仏導寺に葬られた[1]。家督は長男の重安が継いだ[1]

備考[編集]

  • 神奈川県大和市深見の仏導寺には「坂本家の墓」3基(市指定重要有形文化財)があり、被葬者は貞吉、貞吉夫人、貞吉の二男の貞俊(晩年は病気により兄・重安の知行地である深見村で隠棲した[1])であると考えられている[2]。なお重安以後、坂本家は代々江戸の寺を葬地としている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『寛政譜』編纂時の呈譜によれば道春[1]
  2. ^ 『寛政譜』には隠居などの記載はない。文禄元年(1592年)に没。
  3. ^ 『寛政譜』編纂時の呈譜によれば慶長11年(1606年)[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.794、『新訂寛政重修諸家譜 第三』p.80。
  2. ^ 坂本家の墓”. 大和市文化芸術情報サイト 大和文化文花. 大和市. 2021年8月28日閲覧。
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.796、『新訂寛政重修諸家譜 第三』p.82。

参考文献[編集]