国司親相
国司 親相(くにし ちかすけ、天保13年6月15日(1842年7月22日)- 元治元年11月12日(1864年12月10日))は、幕末期の武士。長州藩の家老。諱は朝相とも。通称は熊之助。国司信濃(しなの)の名で知られる。養子に志道元襄次男国司純行。妻は弥佐夫人
生涯
寄組藩士・高洲元忠の次男として生まれる。6歳の頃、同じく寄組藩士5600石の国司迪徳の養嗣子となり、1847年に家督を継いで大組頭となった。家柄も然ることながら、親相は若い頃から聡明だったため、次第に頭角を現してゆき、1863年には長井雅楽の切腹検視役正使を務めている。
1863年5月10日、親相は久坂玄瑞らと共にアメリカ船を砲撃した事件に参加した。この功績により、親相は下関防備総奉行に任じられる。しかし八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されると、親相は家老に昇格した上で、同じく家老の益田兼施や福原元僴、さらに久坂らと共に京都における長州藩の影響力を取り戻そうと挙兵して、禁門の変を引き起こした。しかし薩摩藩・会津藩連合軍の前に大敗し、親相は長州に逃げ帰った。親相の家老職は、益田や福原の永代家老とは違い、実力で昇進した家老職であった。
やがて第一次長州征伐が始まると、総大将に徳川慶勝、参謀に西郷隆盛が就任した大軍が長州に押し寄せてくる。そして西郷が長州藩に対して、責任を取る形で親相ら三家老の切腹を要求したため、親相は徳山澄泉寺にて切腹して果てた。享年23。
辞世の句は「よしやよし 世を去るとても 我が心 御国のために なほ尽さばや」「君がため つくせやつくせ おのがこの 命一つを なきものにして」。
墓所は厚狭郡楠町の天龍寺。妻と並んで墓石が建っている。死後の明治21年靖国神社合祀。明治24年贈正四位。