呉王僚
呉王僚 | |
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呉 | |
5王 | |
王朝 | 呉 |
在位期間 | 前526年 - 前515年 |
姓・諱 | 僚または州于[1] |
生年 | 不詳 |
没年 | 前515年 |
父 | 寿夢[2]あるいは余昧 |
呉王僚(ごおうりょう、? - 紀元前515年/在位:前526年 - 前515年)は、中国春秋時代の呉の第5代の王。姓は姫で、諱は僚または州于。ここでは『史記』呉太伯世家を中心に記述される。
生涯
王位相続の経緯
父は初代の王の寿夢あるいは第4代の王の余昧[3]。弟に蓋余(掩餘)と燭庸がいる[4][5]。
父の余昧はもともと初代の王である寿夢の3男で王位に就く資格はなかった。寿夢には4人の息子があり、その中で4男の季札[6]の器量がずば抜けていたことから王位を季札に譲りたいと考えていた。だが寿夢は王位相続に適切な対策をとらずに死んだ。だが兄である諸樊、余祭、余昧らは父の気持ちを知っていたため、季札に王位を継ぐように求めた。しかし兄を差し置いて王位を継ぐことは不敬であるとして固辞したため、仕方なく長兄の諸樊が継ぎ、その死後王位は息子の光(のちの闔閭[7])ではなく、弟が順に跡を継いでいくようにした。こうすれば順番で季札が跡を継ぐことになるからである。だが、諸樊が死んで余祭、余祭が死んで余昧までは継いだが、余昧が死ぬと季札はまたも王位を固辞した。このため、余昧の息子である僚が跡を継いだ。
このことに対して、僚の呉王即位に対して収まらぬ者がいた。長兄・諸樊の息子である光である。祖父の意思があって王位継承の順序は変わったが、余昧が死んで季札が王位を固辞した段階で、王位継承権は長兄の子である自分に戻るべきであると考えていた。三兄の子である僚に従ういわれは全くないと思っていたと記述されている。
楚との対立
紀元前525年、僚は呉の勢力を拡大するために、公子光(闔閭)を派遣して、楚を攻めてこれを撃ち破った[8]。同時に人材の招聘も熱心で、楚の平王と費無忌によって父の伍奢と兄の伍尚を殺されて逃亡してきた伍子胥を迎え入れたのも僚の時代である[9]。紀元前523年、紀元前537年当時余昧の治世に楚の霊王によって捕虜され抑留生活をした弟の蹶由(季札?)が許されて後に帰国した[10]。
紀元前519年のあるとき、呉楚国境の村で小さな争いから国の運命をかけた戦争へと発展する事件が起きた。その村では養蚕ようさんが盛んであったため、蚕の餌となる桑の葉を大量に必要としていた。そのため、辺りには桑の木がたくさん生えていたのだが、呉の村の子供と楚の村の子供がこの桑の葉を争って喧嘩を始めた。それが子供の親同士の喧嘩に発展し、呉の村の親が負けて家を焼かれた。これに村を統治している郡主は警備兵を出して村を攻め立てた。この報を受けた平王は怒り、国軍を出して村を全滅させた。呉の村が滅ぼされたのを聞いた僚は激怒して国境の居巣と鍾離を攻め落とした。さらに州来まで進撃したため、楚も武将の薳越を派遣してこれを迎え撃った。だが、公子光が「楚に属国はいずれも小国で楚をおそれて従っているだけです。「戦は情けよりも武で、無勢でも勝てる」と聞きます。まずは属国の胡と沈は君主が年若く、陳の大夫の夏齧は年老いて頑固で国政は停滞し、また頓と許と蔡は楚の振る舞いに不満を持っております。同時に楚も統率力がある令尹が亡くなったため、混乱しております。まずは軍を手分けして、胡と沈と陳の軍勢に突入すれば、楚はますます混乱に陥り、他の属国の軍勢も崩れるでしょう。まず先鋒隊は隙を多くし、敵をおびき寄せて、後詰の本隊で撃ち破ることをお勧めします」と進言した。僚はこの進言を採り上げて、秋7月に雞父で呉王僚自らが囚人3千人を胡と沈と陳の軍勢に攻撃させ、右軍は公子光、左軍は公子掩餘(蓋余)が指揮し、胡と沈の若い君主を捕虜し、陳の大夫(夏齧?)も捕らえた。こうして呉は勢いに乗じて楚を撃破した[11]。
紀元前516年に楚では平王が死去し、幼い末子である昭王が即位した。これを聞いた僚は紀元前515年に公子の掩餘(蓋余)と燭庸に国軍を預けて国境にある六を攻めさせたが、楚軍の反撃を受けて孤立した。また、延州来の季子(公子季札)を晋などに派遣し、中原諸国の動向を探らせた[12]。
暗殺
この報を聞いた光は呉軍が孤立したと知りクーデターを計画した。同年夏4月に僚を宴会に招いたのである。僚は光と不仲であったが断れば光との確執を外敵に知らしめるものであったため、腕利きの護衛を付き添って出席した。しかし光は伍子胥の推挙による食客である専諸[13]を召しだし「魚腸剣の秘策」を授けて刺客として僚を刺殺し、僚は即死した。王位は光こと闔閭が奪った[14]。
このため、呉の公子・掩餘は徐(舒)に、燭庸は鍾吾に逃亡した[15]。また、闔閭は護衛によって殺害された専諸の子を卿に任命した。
脚注
- ^ 『春秋左氏伝』より。
- ^ 『春秋左氏伝』より。
- ^ 『史記』呉太伯世家より。『春秋左氏伝』では寿夢の四男と記されている。
- ^ 『呉越春秋』および『東周列国志』によると、呉の公子慶忌の父となっており、公子慶忌の存在を恐れた呉王闔閭と謀臣伍子胥によって派遣された刺客・石要離(要離)に惨殺された設定となっている。
- ^ 『春秋左氏伝』では呉王僚と蓋余(掩餘)・燭庸に関する具体的な親族の血縁上の系譜関係は記されていない。
- ^ 『春秋公羊伝』では、僚は季札の庶兄。
- ^ 『史記索隠』が引く唐の孔穎達の言によると、公子光(闔閭)は余昧の息子。
- ^ 『春秋左氏伝』より。
- ^ 『春秋左氏伝』によると、伍子胥は呉王僚に楚を攻略する利点を説いたが、公子光は「(伍子胥は)一家を惨殺されたので、その仇を報復するために説いているのですから聞き容れてはなりません」と述べている。
- ^ 『春秋左氏伝』より。
- ^ 『春秋左氏伝』より。
- ^ 『春秋左氏伝』より。
- ^ 『春秋左氏伝』では鱄設諸。専諸が召しだされたときに彼は「呉王僚は弑せますが、(自分が殺害された後の)老母とわが息子はどうなりますか?」と闔閭に問うた。闔閭は「わしはそなたと一身同体だ。そなたが万が一のことがあれば一生面倒をみよう」と述べている。
- ^ 『史記』呉太伯世家と『春秋左氏伝』の記述とは大いに異なり、こちらは公子の光(闔閭)は「叔父」にあたる呉王僚を暗殺した経緯となっている。
- ^ 『春秋左氏伝』より。その後の紀元前512年に徐と鍾吾の君主は闔閭によって両公子の引き渡しを求められたため、驚愕した両公子は楚に亡命して養を与えられたと記されている。
参考文献
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