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同時代人

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『同時代人』
プーシキン
ネクラーソフ
寄稿家。後列左からトルストイ、グリゴローヴィッチ。前列左からゴンチャロフ、ツルゲーネフ、ドルジーニン、オストロフスキー。1856年。

同時代人』(どうじだいじん)とは、19世紀ロシアの雑誌。ロシア語は、Современник。『現代人』とも訳される。1836年、サンクト・ペテルブルクで詩人プーシキンによって創刊。1846年、詩人ネクラーソフらに買い取られ、1866年に廃刊。ロシア文学の発展に寄与し、革命運動に影響を与えた。


プーシキンの『同時代人』

皇帝ニコライ1世(在位1825-55)の圧政下、検閲や発禁処分など言論への弾圧も厳しく、文壇は皇帝の意を受けて専制政治を擁護する者たちが支配していた[1]

1836年、『同時代人』は、そのような状況に対抗するために創刊される。また、プーシキン自身の巨額の借金の返済という目的もあった。雑誌は季刊で、600人の予約購読者がいた[2]。掲載作品は、プーシキンの「青銅の騎士」「大尉の娘」、ゴーゴリの「」「肖像画」、ジュコフスキーバラトゥインスキーチュッチェフの詩などで、質は高かったが、一般受けする内容ではなかったため、売れ行きは期待ほどではなく、当初の目的を達することはできなかった[3][4]

1837年にプーシキンが決闘で命を落とすと、友人であるジュコフスキーや批評家プレトニョフらが運営を引き継いだ[5][6]

ネクラーソフの『同時代人』

1846年、出版業界で地歩を固めつつあったネクラーソフが小説家パナーエフとともにプレトニョフから『同時代人』を買い取る。事業家・編集者としても優れていたネクラーソフのもとで雑誌は発展していった。同年、ロシアに文芸批評を確立したベリンスキーを編集者として招き、翌年から雑誌は月刊となる。ベリンスキーは1848年に病死するが、同年、発行部数は3100部に達していた[7]。さらに1850年代にかけてツルゲーネフ猟人日記」「ルージン」「貴族の巣」、ゴンチャロフ平凡物語」、グリゴローヴィッチ不幸者アントン」、ゲルツェン誰の罪」「ドクトル・クルーポフ」、そして当時無名の新人だったレフ・トルストイの「幼年時代」「少年時代」「青年時代」など、文学史に残る作品を次々に掲載していき、ロシア文学の粋を結集した観があった[8][9]

クリミア戦争(1853-56)でロシアは英仏に敗北し、それを機に農奴制に代表されるロシアの後進性を批判する声が国内で沸騰。農民一揆も増加し、世情は騒然となる。『同時代人』掲載の「猟人日記」や「不幸者アントン」など農民を取り上げた小説も世論の形成に貢献した。新帝アレクサンドル2世(在位1855-81)は、1861年の農奴制廃止を初めとして、様々な改革に着手したが、改革は不徹底だとして反政府運動は収まる気配を見せなかった[10][11]

『同時代人』には、1850年代なかばに若い世代の批評家チェルヌイシェフスキードブロリューボフが加わり、政治・経済・哲学・文学などの分野で革命運動を指導する論文を発表して多くの支持を集める。だが、雑階級[12]出身で急進的な彼らと、ツルゲーネフら貴族出身の穏健で自由主義的な作家たちとの対立が深まっていった。

1860年、ツルゲーネフは、自作を批判したドブロリューボフの論文の掲載を差し止めるようネクラーソフに要請した。しかし、ドブロリューボフに立場の近いネクラーソフが拒否したので、ツルゲーネフは『同時代人』と絶縁し、それをきっかけにトルストイら他の貴族出身の作家たちも雑誌を去ることとなった[13][14]

その衝突にもかかわらず、1861年には発行部数が最高の7126部となる[15]。だが、同年ドブロリューボフが病死。翌年、雑誌を危険視した政府は、8か月の発行停止を命じた。さらにチェルヌイシェフスキーが逮捕され、投獄ののちシベリアへ流刑となる[16]

1863年、発行再開後、急進派の指導的小説家サルトゥイコフ・シチェドリンが招かれ、チェルヌイシェフスキーが獄中で執筆した小説「何をなすべきか」が掲載されて革命家の生き方が青年たちを熱狂させる[17][18]。また、グレープ・ウスペンスキーら雑階級出身の若手の作家も加わった。しかし、1866年、革命家カラコーゾフによる皇帝暗殺未遂事件をきっかけに俄然厳しくなった弾圧を受け、雑誌は廃刊に追い込まれた[19][20]

その後ネクラーソフはシチェドリンやウスペンスキーらとともに雑誌『祖国の記録』に新たな活動の場を求めることとなる[21]

脚注

  1. ^ マーク・スローニム『ロシア文学史』新潮社・1976・126-127頁
  2. ^ 購読者数は「同時代人」(05:09, 9 марта 2011 UTC)『フリー百科事典 ウィキペディアロシア語版』による。http://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A1%D0%BE%D0%B2%D1%80%D0%B5%D0%BC%D0%B5%D0%BD%D0%BD%D0%B8%D0%BA_%28%D0%B6%D1%83%D1%80%D0%BD%D0%B0%D0%BB%29
  3. ^ アンリ・トロワイヤ『プーシキン伝』水声社・2003・616頁
  4. ^ 池田健太郎『プーシキン伝』中央公論社・1974・406頁
  5. ^ 中村喜和他『世界文学シリーズ・ロシア文学案内』朝日出版社・1977・293頁
  6. ^ 佐々木照央「『同時代人』」『集英社 世界文学大事典5』集英社・1997・564-565頁
  7. ^ 発行部数は「同時代人」(9 February 2011 at 00:09 UTC)『フリー百科事典 ウィキペディア英語版』による。http://en.wikipedia.org/wiki/Sovremennik
  8. ^ 中村喜和他『世界文学シリーズ・ロシア文学案内』朝日出版社・1977・294頁
  9. ^ 「同時代人」(05:09, 9 марта 2011 UTC)『フリー百科事典 ウィキペディアロシア語版』http://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A1%D0%BE%D0%B2%D1%80%D0%B5%D0%BC%D0%B5%D0%BD%D0%BD%D0%B8%D0%BA_%28%D0%B6%D1%83%D1%80%D0%BD%D0%B0%D0%BB%29
  10. ^ マーク・スローニム『ロシア文学史』新潮社・1976・202-205頁
  11. ^ 木村彰一他『ロシア文学史』明治書院・1977・132-133頁
  12. ^ 雑階級とは、小地主・小商人・教師・医師・司祭などの中間層のこと。1830年代頃から台頭し始めた。(中村喜和他『世界文学シリーズ・ロシア文学案内』朝日出版社・1977・290頁)
  13. ^ 木村彰一他『ロシア文学史』明治書院・1977・133-134頁
  14. ^ 工藤精一郎「解説」「年譜」『猟人日記』新潮文庫・1972・575、583頁
  15. ^ 佐々木照央「『同時代人』」『集英社 世界文学大事典5』集英社・1997・564-565頁
  16. ^ 木村彰一他『ロシア文学史』明治書院・1977・134頁
  17. ^ 金子幸彦『ロシア文学案内』岩波文庫・1976・135-136頁
  18. ^ 中村喜和他『世界文学シリーズ・ロシア文学案内』朝日出版社・1977・62頁
  19. ^ 「同時代人」(9 February 2011 at 00:09 UTC)『フリー百科事典 ウィキペディア英語版』http://en.wikipedia.org/wiki/Sovremennik
  20. ^ 木村彰一他『ロシア文学史』明治書院・1977・134頁
  21. ^ 中村喜和他『世界文学シリーズ・ロシア文学案内』朝日出版社・1977・52頁