古谷紅麟

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図案作品
図案作品
屏風絵。1910年

古谷 紅麟(ふるや こうりん、1875年明治8年)‐1910年(明治43年))は、日本図案家。

来歴[編集]

1875年、滋賀県に生まれる。京都へ移り鈴木万年に絵を学び、また、1892年(明治25年)からは神坂雪佳に図案を学んだ。尾形光琳に対する敬慕から紅麟の号を用いて作品を発表した。1896年(明治29年)に第2回新古美術品展覧会に出品した指物図案が入賞を果たす。その後も新古美術品展覧会への出品と受賞を重ね、後には同展覧会の審査員も務めている。1900年(明治33年)に京都市立美術工芸学校の嘱託技師、1905年(明治38年)に同校助教授として教鞭を執った[1]

神坂雪佳の後継者と目されており、近代における日本の琳派図案の継承者であるといわれる。紅麟は早くから図案集の編集に関与した。『松づくし』、『伊達模様花づくし』、『竹づくし』、『梅づくし』、『扇面図案とこなつ』、『はな筏』、『写生草花模様』、「こうりむもよう」など多数の出版作が有る[1]。また、芸艸堂から1906年(明治39年)に出版した『精英 三』の内「銀世界」などの木版画が見られるが、1910年に突然の病に倒れて道半ばで没した[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 奈良女高師の被服デザイン教材 : 意匠図案集 : 第22回図書展示資料」(PDF)、奈良女子大学附属図書館、2011年10月、2018年3月24日閲覧 

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

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