原田信種

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原田信種
時代 戦国時代後期
生誕 生年不明
死没 慶長3年(1598年
別名 五郎
官位 下野守
主君 龍造寺隆信佐々成政加藤清正
氏族 原田氏
父母 父:草野鎮永
兄弟 草野永純
嘉種(種次)種房
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原田 信種(はらだ のぶたね、? - 慶長3年(1598年))は戦国時代の武将。大蔵氏嫡流である原田氏の当主。筑前高祖山城高祖城)主。妻は龍造寺氏の娘。原田嘉種原田種房の父。五郎。下野守。

実父は肥前松浦草野鎮永原田了栄の次男)。先代の原田親種大友宗麟に責められ自害したのだが、親種の子秀種は既に戦死していたため、了栄は孫の信種にあとを継がせたのである。

このため信種は大友を憎み龍造寺に接近するのだが、祖父了栄より実父鎮永のほうを恃みがちだったため家臣らは不満の声を上げるようになる。 天正12年(1584年)、この状況を見た岸岳城波多親に侵攻されるものの、急襲によって撃退している。

豊臣秀吉の九州征伐で降伏したが、所領隠匿が発覚して所領のほとんどを奪われた(なお、同時期に転封を拒否して秀吉に処刑された草野鎮永は、信種の父とは筑後の同族だが別人)。以後は肥後に国替えとなり、佐々成政のちに加藤清正の与力となる。

1598年、慶長の役に清正の配下として出兵し蔚山城の戦いで戦死した。

なお、信種は戦死せずに朝鮮に降伏、「降倭」となって鉄砲の技術を伝え、朝鮮軍として日本軍と戦った「沙也可」(後の金忠善)であるとの説もある。

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