刑部卿局

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刑部卿局(ぎょうぶきょうのつぼね、生没年不詳[1])は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。千姫の侍女[1]乳母ともいう。大坂の陣における千姫の大坂城脱出に従い[1]、その後も長らく老女として千姫に仕えた[1]

江戸時代における「縁切寺」の一つとして知られる満徳寺(現在の群馬県太田市徳川町)の寺伝によれば、刑部卿局は俊澄尼を称して同寺の住職を務めたという。

生涯

出自について

満徳寺関係の史料によれば、刑部卿局は浅井長政の娘であるという[2][注釈 1](『満徳寺過去帳』によれば「浅井殿末ノ息女」[2])。これを信じれば淀殿や徳川秀忠正室の崇源院の姉妹、千姫のおばということになる。満徳寺は明治5年(1872年)に廃寺となるが[注釈 2]、最後の住職は還俗した際に、中興開山である刑部卿局(俊澄尼)の俗姓にちなみ、「浅井」を姓としている[3][4]

ただし、刑部卿局を浅井長政の娘とする記述は満徳寺以外の史料には見られないという[2]。満徳寺は徳川氏が祖先とした得川氏由緒の上州徳川(得川)郷に所在し、江戸時代における「縁切寺」の一つとして知られる寺であるが、江戸時代の寺伝(「寺法書出」)では得川義季の娘の浄念尼を開山とするなど、「離縁寺役」を担う寺の特別な由緒を強調している[5]。『離縁状と縁切寺』(1942年)を著した穂積重遠は、浅井長政の娘という寺伝をはなはだ疑わしいとしている[6][7]

淀殿をはじめ大坂城の奥向にいた女性たちの履歴については混乱も多く(秀頼に仕えた右京大夫局宮内卿局が混同される[8]、内藤新十郎長秋の母が刑部卿局とも[8]宮内卿局とも[8]饗庭局ともされるなど)、淀殿についての著述のある赤石いとこは、刑部卿局を浅井長政の娘とするのは淀殿との混同ではないかと推測している[2]

千姫に仕える

千姫(のちに天樹院殿)は慶長2年(1597年)に生まれ、慶長8年(1603年)に7歳で豊臣秀頼と結婚した。

刑部卿局は千姫の教育係として京風の作法を教えた[1]。『満徳寺過去帳』によれば刑部卿局は「天樹院殿御乳人」と記されており、千姫の乳母であったとしている[2]。『土屋知貞私記』でも刑部卿局を「御姫様之御乳母」とする記述がある[9]

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、千姫に付き従い大坂城を脱出した。堀内氏久の護衛を受け、徳川家康の本陣まで送り届けられたという[1]

寛政重修諸家譜』によれば、徳川家康と秀忠は、千姫の城外脱出における刑部卿局の計らいを喜び、刑部卿局の孫にあたる内藤伊知(蔵人、清左衛門)を取り立て、700石を与えて徳川頼宣に附属させたという[10]。『寛政重修諸家譜』によれば、内藤伊知の父は大坂の陣で木村重成に属し、八尾の戦いにおいて21歳で戦死した内藤政勝(新十郎)である[10][注釈 3]。『土屋知貞私記』によれば、木村重成に属して討死した内藤新十郎(内藤長秋)は刑部卿局の子である[9]

大坂落城後の千姫と刑部卿局

満徳寺の「寺法書出」(文化5年(1808年)提出)によれば、千姫は「縁切寺」とされる上州満徳寺で「天樹院」の法号を与えられ、秀頼との縁を切った上で元和2年(1616年)に本多忠刻に再嫁したとされる[11][7]。このとき刑部卿局は、千姫の「御代わり」として満徳寺に入寺し、俊澄尼と号して住職を継いだという[12][7]。満徳寺では俊澄尼(刑部卿局)を中興開山と位置付けている[12]。ただし、実際には刑部卿局は引き続いて千姫に仕えた[7]。千姫が天樹院(あるいは天寿院)を称するのも忠刻の死後である[13]

寛永3年(1626年)に本多忠刻が没すると、千姫は娘の勝(のちに池田光政室。円盛院)とともに姫路から江戸に移り住んだ[13]。千姫の上屋敷は江戸城三の丸、中屋敷は江戸城北の丸にあった[13]。刑部卿局も江戸で起居することが多かったとされる[7]

江戸名所図会』によれば、大塚にあった普門山大慈寺(臨済宗東福寺派。明治中期に廃寺[14])は、慶安2年(1649年)[15]の中興に際して刑部卿局(「天寿院殿の侍女」と注記がある)を開基とした[16]。刑部卿局の法号は「大慈寺殿仙林栄寿禅尼」で、沢庵宗彭が銘を撰した墓碑が大慈寺にあった[16]。「慶長」4年[注釈 4]に80歳あまりで没したと記している[16]が、「慶長」は誤字と見られる[注釈 5]

『満徳寺過去帳』によれば、慶安3年(1650年)5月12日没[2]。ただし『満徳寺過去帳』は不正確な点が多いことも指摘されている[注釈 6]。満徳寺にも俊澄尼(刑部卿局)の墓碑がある[3]

備考

  • 18世紀頃に成立した[17]柳営婦女伝系[注釈 7]に収録された松坂局の伝記では、松坂局が好んで語っていた物語として以下のような話を載せる。大坂落城の間際、淀殿は千姫の着物の袖を自分の膝の下に敷き、人質とする構えで少しも離そうとしない様子であったが、刑部卿局が機転を利かせ、秀頼が今自害したかのように秀頼の名を叫んだため、淀殿は驚いて秀頼のもとへ走って行った。その隙に刑部卿局と御側侍女3人ばかりで岡山の家康本陣に立ち退いた。しかし松坂局はこれに遅れて千姫を見失ってしまい、ある陣所で千姫の行方を訪ねてようやく家康本陣にたどり着いたという[19]

登場作品

小説

映画

テレビドラマ

舞台

脚注

注釈

  1. ^ 満徳寺由緒書には「中興開山俊澄比丘尼ハ浅井長政之娘ニテ徳川家ニ仕へ刑部局ト申候」とある。
  2. ^ 1894年(明治27年)に再興[3]
  3. ^ この内藤家は、若狭武田家の重臣であった内藤筑前守の流れを汲むとされ、政勝の父の内藤政貞(又十郎)は若狭武田家滅亡後に牢人となり京都に住したという[10]。『寛政譜』によれば伊知の弟の勝房(市郎左衛門)も紀伊徳川家に仕えた[10]。また、正勝の弟の直信(勝兵衛)ものちに江戸幕府に出仕した[10]
  4. ^ 1599年
  5. ^ 仮に慶安4年(1651年)に80歳ちょうどで没したとするならば、元亀3年(1572年)の生まれという計算になる。浅井氏出自説の参考として、淀殿の出生は一般に永禄10年(1567年)、崇源院の出生は一般に天正元年(1573年)とされ、浅井氏の滅亡は天正元年(1573年)である。
  6. ^ 崇源院の没年や将軍との関係を誤る、浅井長政(備前守)を「肥前守」と誤るなど[2]
  7. ^ 後世の編纂物のため、信憑性は高くない[18]

出典

  1. ^ a b c d e f 刑部卿局(2)”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年8月19日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 紀伊(赤石いとこ) (2011年11月28日). “高野山浅井家過去帳など”. 茶々姫をたどる汐路にて. 2022年8月19日閲覧。
  3. ^ a b c 穂積陳重 1942, p. 215.
  4. ^ 田中実 1969, p. 12.
  5. ^ 穂積陳重 1942, pp. 211–213.
  6. ^ 穂積陳重 1942, pp. 214–215.
  7. ^ a b c d e 田中実 1969, p. 18.
  8. ^ a b c 紀伊(赤石いとこ) (2012年4月29日). “秀頼を育てた二人の女性 ~右京大夫局と宮内卿局”. 茶々姫をたどる汐路にて. 2022年8月19日閲覧。
  9. ^ a b 紀伊(赤石いとこ) (2012年4月29日). “あいば、寧と茶々、秀頼と日秀、刑部卿局”. 茶々姫をたどる汐路にて. 2022年8月19日閲覧。
  10. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』巻第百五十三「内藤」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.909
  11. ^ 穂積陳重 1942, pp. 213–214.
  12. ^ a b 穂積陳重 1942, p. 214.
  13. ^ a b c 福田千鶴 2020, p. 9.
  14. ^ 七会静. “『江戸名所図会』の大塚・雑司ヶ谷を歩く”. 坂と歴史の町 小石川・茗荷谷タウンガイド. 2022年8月20日閲覧。
  15. ^ 江戸名所図会』第七巻、国会図書館デジタルライブラリー版37コマ
  16. ^ a b c 江戸名所図会』第七巻、国会図書館デジタルライブラリー版36コマ
  17. ^ 望月良親 2010, p. 175.
  18. ^ 望月良親 2010, p. 164.
  19. ^ 『柳営婦女伝叢』, p. 114-115.

参考文献

  • 『柳営婦女伝叢』国書刊行会、1917年。NDLJP:945825 
  • 田中実「縁切寺としての上州満徳寺 : 内済示談の事例を中心に」『法學研究 : 法律・政治・社会』第42巻、第3号、慶應義塾大学法学研究会、1969年。 NAID 120006716119 
  • 福田千鶴「江戸城本丸女中法度の基礎的研究」『九州文化史研究所紀要』第63巻、九州大学附属図書館付設記録資料館九州文化史資料部門、2020年。doi:10.15017/4403304 
  • 穂積陳重『離縁状と縁切寺』日本評論社、1942年。NDLJP:1267423 
  • 望月良親「読まれる女性たち : 「将軍外戚評判記」と「大名評判記」」『書物・出版と社会変容』第8巻、「書物・出版と社会変容」研究会、2010年。 NAID 120002205317 

外部リンク