八十梟帥(やそたける)は『日本書紀』にある人名。「数多くの勇者」という意味で用いられている可能性もある。『古事記』では八十建と表記し、後者の意味で用いている。
『書紀』によれば神武天皇が菟田の高倉山に登りて、国内を見渡したとき、国見岳の上に八十梟帥がいたとされ、この八十梟帥は後に天皇に敗れ、斬り殺されている。
弟猾は、「倭の国の磯城の邑に磯城の八十梟帥あり、又高尾張の邑に赤銅の八十梟帥あり」と奏上している。
また弟磯城は「吾が兄兄磯城、天つ神の子来ましつと聞きては、八十梟帥を聚め、兵甲を具へてあひ戦はむとす。」と述べている。
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