元均

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元均(げんきん、원균(ウォン・ギュン)、1540年2月12日 - 1597年8月2日)は、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱/朝鮮征伐)時の李氏朝鮮の将軍。

元々、元均は武科に及第して北方の女真討伐に従事していた。非常に勇猛な将軍で、そのことは『宣祖実録』に特筆されるほどであった。

咸鏡道富寧府使を務めていたが、1592年文禄の役開始2ヶ月前に慶尚道右水使に任命され水軍の司令官となる。しかし、4月にいざ日本軍が大挙して押し寄せると戦わずして逃走するが、その後は全羅道左水使の李舜臣らと共に日本水軍と戦った。しかし猪突猛進ともいえる性格の元均と文人的な一面のある李舜臣とは肌の合わない性格でもあったようだ。李舜臣には『乱中日記』に「天と地の間にはこの元均のように凶悪で常軌を逸した人はいないだろう」[1]と酷評されている。

慶長の役では、讒言により失脚した李舜臣に代わり、三道水軍統制使となり朝鮮水軍全軍の指揮権を握った。しかし巨済島海戦(漆川梁海戦)で、藤堂高虎ら率いる日本水軍に強襲され、大敗。戦死した。(生存説もある[2]

後に左賛成(従一品)に追叙され、原陵君に追封された。

気性が荒く部下にも厳しかった事や、讒言により李舜臣を陥れた疑惑があるためあまり評判は良くないが、近年韓国では再評価されつつある。

元均水軍の編成(慶長の役直後)

  • 三道水軍統制使-元均
  • 慶尚右水使-裴楔
  • 全羅右水使-李億祺
  • 忠清水使-崔湖

脚注

  1. ^ 李舜臣将軍の「乱中日記」、32日分が新たに確認(聯合ニュース2008/04/02 14:39)
  2. ^ 宣祖實錄 三十年
    七月二十一日成貼都元帥權慄書狀:臣軍官崔永吉自閑山島今始出來云:「元均 免死, 向 晋州傳說:蛇梁 時到大船十八隻全羅船二十餘隻本道散在閑山 留住軍民男女軍器輳集雜船無遺收到于 昌善島軍粮萬餘石一時不得載運除出焚火格軍則奔敗之船皆艤於連陸故死亡者不多」云。