仲地紀仁

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仲地 紀仁(なかち きじん、1789年2月3日乾隆54年1月9日)-1859年4月7日咸豊9年3月5日))は、琉球王国の医者。泊村(現・那覇市)出身。唐名は松 景愼、童名は松金、号を良翁といい、正式な呼称は仲地親雲上紀仁。

26歳で清国福州へ渡り、3年間内科眼科を学び。その帰路、薩摩藩に漂着し、外科を学ぶ、1年滞在ののち帰国、すぐ王府勤めの医者となった。

1846年(道光26年)、護国寺滞在のイギリス宣教師バーナード・ジャン・ベッテルハイムに出会って、牛痘種痘を学ぶ、琉球で初めて行ったとされる。沖縄学学者金城清松は「琉球の種痘の父」と指摘している。

関連項目

参考文献

  • 『沖縄大百科事典』、沖縄タイムス、1983年