上西門院兵衛

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待賢門院が中興し後に上西門院も住した法金剛院

上西門院兵衛(じょうさいもんいんのひょうえ、生年不詳 - 1183年(寿永2年),1184年(寿永3年)頃)は、平安時代後期の歌人である。父は村上源氏神祇伯源顕仲。姉妹に、顕仲卿女(重通妾)[* 1]、大夫典侍[* 2]待賢門院堀河がいる。待賢門院兵衛とも呼ばれる。

経歴

姉の堀河と共に鳥羽天皇中宮待賢門院藤原璋子に出仕、後にその皇女で斎院を退いた上西門院統子内親王に出仕した。1160年(永暦元年)上西門院の落飾に従い、出家している。『金葉和歌集』以降の勅撰集、『久安百首』等に作品を残している。

逸話

  • 堀河との姉妹連歌[1]が記録されている。

  油綿をさし油にしたりけるがいと香しく匂ひければ
ともし火は たき物にこそ 似たりけれ 上西門院兵衛
丁子かしらの 香や匂ふらん      待賢門院堀河

— 『菟玖波集』 下
  • 西行『聞書集』の、戦乱で武士が数多く死ぬことに触れた続きに、兵衛の句に西行が上句を付けている箇所がある[2]

  上西門院にて わかき殿上の人々 兵衛の局にあひ申して
  武者のことにまぎれて歌おもひいづる人なしとて
  月のころ 歌よみ 連歌つづけなんどせられけるに
  武者のこといで来たりけるつづきの連歌に
いくさを照らす ゆみはりの月
  伊勢に人のまうで来て
  かかる連歌こそ 兵衛殿の局せられたりしか
  いひすさみて つくる人なかりき
  と語りけるを聞きて
こころきる てなる氷の かげのみか

— 『聞書集』
だが戦乱の中、兵衛の死を聞いて、

  兵衛の局 武者のをりふしうせられにけり
  契りたまひしことありしものをと あはれにおぼえて
さきだたばしるべせよとぞ契りしに おくれて思ふあとのあはれさ
  仏舎利おはします
  我さきだたば迎へ奉れ
  とちぎられけり
亡き跡のおもきかたみにわかちおきし 名残のすゑを又つたへけり

— 『聞書集』
どのような経緯で兵衛が仏舎利を伝えていたのかはわからないが、それを形見にすると約束していた程なので、西行との深いつながりがうかがえる。

作品

勅撰集
歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数
後拾遺和歌集 金葉和歌集 待賢門院兵衛  1 詞花和歌集
千載和歌集 上西門院兵衛  9 新古今和歌集 上西門院兵衛  2 新勅撰和歌集 上西門院兵衛  1
続後撰和歌集 上西門院兵衛  2 続古今和歌集 続拾遺和歌集 上西門院兵衛  1
新後撰和歌集 玉葉和歌集 兵衛
上西門院兵衛
 1
 1
続千載和歌集 上西門院兵衛  3
続後拾遺和歌集 上西門院兵衛  1 風雅和歌集 上西門院兵衛  2 新千載和歌集 上西門院兵衛  1
新拾遺和歌集 兵衛
上西門院兵衛
 1
 2
新後拾遺和歌集 新続古今和歌集 上西門院兵衛  1
百首歌・歌合
名称 時期 作者名表記 備考
西宮歌合 1128年(大治3年)8月29日 兵衛督君 兵衛君 兵衛督
南宮歌合 1128年(大治3年)9月21日 兵衛君
住吉歌合 1128年(大治3年)9月28日 兵衛君
右衛門督家歌合 1149年(久安5年)6月28日 前斎院兵衛顕仲伯女
久安百首 1150年(久安6年) 上西門院 兵衛
私家集
  • 『兵衛殿の家の集』があったという[3]が伝存しない。

脚注

注釈

  1. ^ 金葉和歌集3首、詞花和歌集1首。
  2. ^ 金葉和歌集2首。

出典

  1. ^ 『菟玖波集』 下 1895
  2. ^ 『聞書集』
  3. ^ 『実家集』

参考文献

関連項目