ペーター・リバール

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ペーター・リバールPeter Rybar, 1913年8月29日 - 2002年10月4日[1][2]

オーストリアウィーンに生まれたスイスのヴァイオリニストプラハ音楽院ヨゼフ・スークに師事した後、パリでカール・フレッシュに師事。1938年からスイスに居住し、長い歴史を誇るヴィンタートゥーア・コレギウム・ムジクムコンサートマスターに就任した。また同時にヴィンタートゥーア音楽院の教授として後進の指導に当たり、スイスの弦楽奏者の水準を著しく高めた。(現在ヴィンタートゥーア音楽院はチューリッヒ音楽院と合併し、チューリッヒ・ヴィンタートゥーア音楽院となっている)1950年代にはハスキルとのデュオが大変有名であった。

1952年に、ピアニストのマルセル・デーペン(Marcelle Daeppen)と結婚し、デュオ・リバールを結成。

戦後から録音活動を活発に行い、中でも同僚クレメンス・ダヒンデンを指揮者に迎えたヴィンタートゥーア・コレギウム・ムジクム(ヴィンタートゥール交響楽団)との一連のウェストミンスター録音は、好楽家から温かく迎えられた。

1970年にヴォルフガング・サヴァリッシュスイス・ロマンド管弦楽団の首席指揮者に就任するにあたって懇請を受けてスイス・ロマンド管弦楽団のコンサートマスターに就任し、1980年までその任にあった。同時にジュネーヴ音楽院でも後進を指導した。

1980年4月27日にジュネーヴでフェアウェル・コンサートを開き、引退。スイスのイタリア語圏のルガノ湖カスラーノに移り住み、そこでも後進の指導を続けていたが、2002年10月4日に亡くなった。

脚注

  1. ^ [1]
  2. ^ [2]