ヘンリー・リデル (初代レイヴェンスワース男爵)
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(ヘンリー・リデル (初代レーヴェンスワース男爵)から転送)
初代レイヴェンスワース男爵ヘンリー・リデル(英語: Henry Liddell, 1st Baron Ravensworth、1708年8月1日(洗礼日) – 1784年1月30日)は、グレートブリテン王国の政治家、貴族。
生涯
[編集]トマス・リデル(Thomas Liddell、1680年頃 – 1715年、第3代準男爵ヘンリー・リデルの息子)とジェーン・クレイヴァーリング(Jane Clavering、1679年 – 1774年ジェームズ・クレイヴァーリングの娘)の長男として生まれ、1708年8月1日に洗礼を受けた[1][2]。1715年5月に父が死去、1723年9月1日に祖父が死去すると準男爵位を継承した[1]。1725年11月22日にケンブリッジ大学ピーターハウスに入学、1729年にM.A.を授与された後[3]、1730年頃にグランドツアーに出た[4]。
1734年イギリス総選挙で投票者1人毎に10ポンド与えたことでモーペス選挙区で当選した[4]。議会では政府を支持、1739年にはパルド協定を支持した[4]。その後、1747年6月29日にグレートブリテン貴族のレイヴェンスワース男爵に叙され[1]、庶民院を離れた。
1784年1月30日に死去、2月8日に埋葬された[1]。息子を儲けなかったため、レイヴェンスワース男爵の爵位は断絶したが、準男爵位は親族のヘンリー・リデルが継承した[1]。
家族
[編集]1735年4月27日、アン・デルム(Anne Delme、1794年6月没、ロンドン市長サー・ピーター・デルムの娘)と結婚[1]、1女を儲けた。
- アン(1737年頃 – 1804年) - 1756年、第3代グラフトン公爵オーガスタス・フィッツロイと結婚、子供を儲けたが、後に離婚して1769年に第2代アッパー・オソリー伯爵ジョン・フィッツパトリックと再婚
脚注
[編集]- ^ a b c d e f Cokayne, George Edward, ed. (1895). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (N to R) (英語). Vol. 6 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 330.
- ^ Lowe, William C. "Liddell, Henry, first Baron Ravensworth". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/40432。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ "Liddell, Henry, Sir, Bart. (LDL725H)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ a b c Sedgwick, Romney R. (1970). "LIDDELL, Sir Henry, 4th Bt. (1708-84), of Ravensworth Castle, co. Dur.". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年7月15日閲覧。
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先代 モーペス子爵 サー・トマス・ロビンソン準男爵 |
庶民院議員(モーペス選挙区選出) 1734年 – 1747年 同職:モーペス子爵 1734年 – 1738年 ヘンリー・ファーニーズ 1738年 – 1741年 ロバート・オード 1741年 – 1747年 |
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爵位創設 | レイヴェンスワース男爵 1747年 – 1784年 |
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