プレドスラヴァ・スヴャトポルコヴナ

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プレドスラヴァ・スヴャトポルコヴナ
Предслава Святополковна

出生 11世紀末
死去 12世紀前半
配偶者 ニトラ公アールモシュ
子女 アドレータ
ヘドヴィカ
ベーラ2世
家名 リューリク家
父親 キエフ大公スヴャトポルク2世
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プレドスラヴァ・スヴャトポルコヴナロシア語: Предслава Святополковнаハンガリー語: Predszláva、11世紀末 - 12世紀前半)は、リューリク朝の公女である。ハンガリー王子アールモシュ(en)の妻、ハンガリー王ベーラ2世の母。

生涯[編集]

プレドスラヴァはキエフ大公スヴャトポルクと、その最初の妻(おそらくボヘミア(チェコ)公スピチフニェフ2世(en)の娘)との間に生まれた。父スヴャトポルクは1094年に二度目の結婚をしたことが知られているため、プレドスラヴァの誕生年はこれより前の年ということになる。

1104年8月21日、ハンガリー王子であるニトラ公(en)アールモシュ(ハンガリー王カールマーンの弟)と結婚した。アールモシュはハンガリー王位並びにクロアチア王位(en)を請求し、兄カールマーンと対立関係にあった。すなわち、プレドスラヴァとの結婚は、キエフ・ルーシからの援助を取り付けようとするアールモシュの意図によるものであった。

1108年、アールモシュの所領はカールマーンに占領され、アールモシュはドイツへと逃亡するが、この時のプレドスラヴァの動向は不明である。しかしプレドスラヴァの子の誕生年からみて、プレドスラヴァは存命であったと判断される。一方、アールモシュは1128年にビザンツ帝国で死亡するが、この時にプレドスラヴァに関して言及した史料は世に知られていない。

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夫アールモシュとの間に以下の子がいる。

:(本節のラテン文字表記はチェコ語表記を用いている)

参考文献[編集]

  • Назаренко А. В. Зело неподобно правоверным (Межконфессиональные браки на Руси в XI—XII вв.) // Вестник истории, литературы, искусства: альманах. — М.: Собрание, 2005. — Т. 1
  • Benda Kálmán: Magyarország történeti kronológiája a kezdetektől 1526-ig. I. köt. Akadémiai Kiadó, 1983
  • Kristó Gyula, Engel Pál, Makk Ferenc: Álmos 2., Korai magyar történeti lexikon, cikkszerző: Sebők Ferenc, Akadémiai Kiadó, Budapest