鄧子龍

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鄧 子龍(とう しりゅう 1531年 - 1598年)は中国明代の武将。慶長の役に明の朝鮮援兵の水軍副将(副総兵)として参戦し戦死した。

江西省豊城市出身。嘉靖年間の江西内乱を平定し、その功により広東把総となる。万暦11年(1583年)2月、緬甸(現ミャンマー)が雲南を侵犯した際には兵を率いて雲南に入り、敵軍数百人を切って緬甸各族を明に帰順せしめた。

万暦26年(1598年)、前年よりの日本軍の再侵攻にあたり、鄧子竜は既に七十近い老齢であったが二百の士卒を率いて援朝し水軍副総兵に任ぜられた。同年11月19日(明暦)、慶長の役最後の大規模海戦となった露梁海戦において、水軍総兵陳璘から、朝鮮水軍統制使李舜臣とともに兵千人・巨艦三隻を率いての先鋒を命じられ[1]、自ら先陣を切って奮戦するも、突出した乗船を島津義弘の軍に囲まれ戦死する[2]。これは朝鮮水軍主将である李舜臣とともに、日本側にはなかった同海戦における上級指揮官の戦死であった。遺体は故郷豊城に帰って葬られ、朝鮮は彼のために廟を立て祀った。

著書に『横矛集』がある。

脚注

  1. ^ 「璘遣子龍偕朝鮮統制使李舜臣督水軍千人」明史[1]。字義からは「偕」は「あいたずさえて、終始ともに」の意で、時間的に前後したり途中で落ち合う場合は「俱」が使われる。
  2. ^ 征韓録』に石火矢で打ち破り鄧子龍以下従卒二百人を討ち取ったとあり、『明史』には味方からの火器の誤投擲により火災を生じ日本兵に乗り込まれたとある。軍記物である『土佐物語』では『明史』に準じており、明の後陣船の石火矢が子龍の帆柱をへし折り、この間に小西行長勢に乗り込まれ、討ち取られたとしている。

文献情報

  • 『明史 列伝第百三十五』鄧子龍伝(巻247)[2]