チベット大蔵経
チベット大蔵経(-だいぞうきょう)は、8世紀末以後、主にサンスクリット語仏典をチベット語に訳出して編纂された仏教の経典の名称。
概説
インド本国において最終的に紛失・散逸してしまった後期仏教の経典の翻訳を数多く含み、その訳出作業も長年の慎重な校訂作業によって絶えず検証、再翻訳され続けてきたため信頼性が高く、サンスクリット原本がない場合などは、チベット訳から逆に翻訳し戻す作業などによって、原本を推定したりして、世界の仏教学者の研究のよりどころとなっている。
まずチベット語そのものが、7世紀にソンツェンガンポ (srong btsan sgam po) 王の時代、632年にトンミサンボータ (thon mi saMbhoTa) をインドに留学させて、チベット文字・文法を確立させたものである。そのせいで、サンスクリット語仏典がチベット語に翻訳された。
チベット大蔵経自身は、顕教(けんぎょう)部分が主に9世紀前半に、後期密教(みっきょう)部分が11世紀以後に訳され、14世紀はじめ頃、中央チベット西部のナルタン寺で経・律を内容とする〈カンギュル〉(bka'-'gyur、甘殊爾)と論疏(ろんしょ)を扱った〈テンギュル〉(bstan-'gyur、丹殊爾)に分けて編集されてできあがった。やがて増補されて前者はツェルパ本、後者はシャル本となった。
チベットでは、経典は、信仰心を著わすものとしてながらく写本で流布していたが、中国の明朝の永楽帝は中国に使者を派遣するチベット諸侯や教団への土産として、1410年木版による大蔵経を開版、この習慣がチベットにも取り入れられ、以後、何種類かが開版されることになった。
テンギュルの最古版は雍正(ようせい)版(1724年)で、ナルタン版(1742年)も同様にシャール本を補訂したチョンギェー本によっている。デルゲ版(1742年)も同本を参照しているが、シャール本を底本としている。
上記テンギュル3版にそれぞれのカンギュル(1737年、1732年、1731年)を合せたものが最も有名で、最初のものは「北京版」と呼ばれている。他に、チョーネ版(1731年)、ラッサ版(1934年)のカンギュルとチョーネ版のテンギュル(1773年)があり、ジャン版の覆刻リタン版もある。
- 北京版 永楽版カンギュル(1410年)、万暦版カンギュル(1606年)、康煕版カンギュル(1692年)、雍正版テンギュル(1724年)
- リタン版(ジャン版) (1621-24年)
- チョネ版 カンギュル(1731年)、テンギュル(1773年)
- ナルタン版 カンギュル(1732年)、テンギュル(1773年)
- デルゲ版 カンギュル(1733年)、テンギュル(1742年)
- ラサ版 カンギュル(1936年)
また中国では、1990年代より、洋装本の形式で刊行される中華大蔵経事業の一部として、過去の諸写本、諸版の多くを校合したテンギュルの編纂が進められている。