ガルダン・ハーン

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ガルダン・ハーン1644年 - 1697年)は、オイラト部族連合に属すジュンガル部の第4代部族長および、ジュンガル・ホンタイジ国の第3代ホンタイジ(在位:1671年 - 1697年)。バートル・ホンタイジの四男、またホシュート部のグーシ・ハーンの孫でもある。

生涯

ガルダンは幼少時にラマとなる教育を受けるため、ラサダライ・ラマ5世のもとに送られた。1653年に父のバートル・ホンタイジが三男であるガルダンの兄センゲを後継者に指名して死に、その後継者となったセンゲは彼の異母兄にしてバートル・ホンタイジの長男Tseten、次男Tsobdaに順番を飛び越して相続したことで恨まれ、1670年に殺された。兄の訃報を聞きつけたガルダンは還俗し、エルティシ川に舞い戻って兄の仇を討ち、ダライ・ラマ5世から「ホンタイジ」の称号を授けられ、ジュンガルの第3代ホンタイジとなった。

ガルダンは1677年にホシュート部のオチルト・ハーンを破ってオイラトの指導者となり、ダライ・ラマ5世から最高位の「ボショクト・ハーン」の称号を授けられると、ジュンガルにおける最初で最後のハーンとなる。ガルダンの勢いはとどまらず、1679年までにウイグル族東トルキスタン及びカザフ族の中央アジアの一部をも支配下にした。1688年、ガルダンは清朝の膨張に対抗するためにモンゴルを統一しようと考え、東モンゴリアのハルハ部の領地に侵入し、ハルハ族を大破した。敗れたハルハ部は内モンゴリアに逃れ、清朝に保護を求めた。1690年、センゲの長男でガルダンの甥に当たるツェワンラブタンが反乱を起こし、ジュンガリアと東トルキスタンを制圧した。帰路を断たれたガルダンは、水草が豊かな漠南地区を目指して進軍中、清朝軍とウランブーダンで衝突し、双方に大きな損害を出し、再起を図るべく退却した。1696年、清の康熙帝が東モンゴリアへ親征を行い、ガルダンは大半の兵士を失い敗走、病没した。