アブドゥル・ハリム

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アブドゥル・ハリム
Abdul Halim
生年月日 1911年11月27日
出生地

オランダ領東インドの旗 オランダ領東インド


西スマトラ州ブキティンギ
没年月日 (1987-07-04) 1987年7月4日(75歳没)
死没地 インドネシアの旗 インドネシアジャカルタ
所属政党 無所属
称号 インドネシア国家英雄

内閣 ナシール内閣インドネシア語版
在任期間 1950年9月6日 - 1951年4月27日
大統領 スカルノ

インドネシアの旗 第4代首相
内閣 ハリム内閣インドネシア語版
在任期間 1950年1月16日 - 1950年9月5日
大統領 スカルノ
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アブドゥル・ハリムAbdul Halim1911年12月27日 - 1987年7月4日)は、インドネシア政治家。第4代首相を務めた[1]

生涯[編集]

生い立ち[編集]

1911年に西スマトラ州ブキティンギで生まれる。7歳の時に、良好な環境で教育を受けるため、母の従兄弟でバタヴィア石油会社(現:プルタミナ)の役員だったアブドゥッラーに招かれてジャカルタに移り住み医科学校に進学する[2]

政治家[編集]

1945年のインドネシア独立後は、インドネシア中央国家委員会インドネシア語版議長アッサート英語版の下で副議長を務めた。1948年にはモハマッド・ナシールヨハネス・ライメナ英語版と共にインドネシア共和国臨時政府英語版の設立に関与した。1950年1月から9月にかけてインドネシア共和国の第4代首相を務めた。首相退任後の1951年7月からはRSUP(現:Dr. Cipto Mangunkusumo Hospital)の院長に就任し、1961年7月まで務めた。院長退任後は同病院の監察官を務め、1987年に死去した。

サッカーを趣味とし、プルシジャ・ジャカルタの会長を務めた他、インドネシア・オリンピック委員会の副会長・会長(1951年-1955年)を務め、1952年にはインドネシア初のオリンピック選手団をヘルシンキオリンピックに派遣した[2]

出典[編集]

  1. ^ Vickers, Adrian (2005). A History of Modern Indonesia. Cambridge University Press. p. 226. ISBN 0-521-83493-7. https://books.google.com.sg/books?id=RWrm7tPzs1AC&printsec=frontcover#PPA226,M1 
  2. ^ a b Chaniago, J.R. (1981). Di Antara Hempasan dan Benturan. Arsip Nasional Republik Indonesia. https://books.google.com.sg/books?id=KCIeAAAAMAAJ&dq=hempasan+dan+benturan&source=gbs_book_other_versions_r&cad=0_2&pgis=1 
公職
先代
モハマッド・ハッタ
インドネシアの旗 首相
第4代:1950年
次代
モハマッド・ナシール
先代
ハメンクブウォノ9世
インドネシアの旗 国防大臣
第6代:1950年 - 1951年
次代
モハマッド・ナシール(暫定)