アウルス・ポストゥミウス・トゥベルトゥス
アウルス・ポストゥミウス・トゥベルトゥス(Aulus Postumius Tubertus、紀元前5世紀)は共和政ローマの軍人・政治家である。
紀元前433年、ウェイイ人とファリスキ人がローマによるフィデナエ占領によって脅威を感じ、他の都市に反乱の檄を飛ばした。これを受け、元老院はマメルクス・アエミリウス・マメルキヌスを独裁官に任命し、彼によってポストゥミウスは騎兵長官に任じられ、戦争準備をした[1]。
紀元前431年、アエクィ人がローマに対して反乱を起こした。執政官のティトゥス・クィンクティウス・キンキナトゥスとグナエウス・ユリウス・メント率いる軍がアルギドゥス山で反乱軍と戦ったが、彼らの不仲のためにローマ軍は劣勢に立った。このため、独裁官を選ぶことになり、くじでその人事権を得たクィンクティウスは義理の父であるポストゥミウスを独裁官に任命した。そしてポストゥミウスはルキウス・ユリウスを騎兵長官とし、グナエウス・ユリウス・メントとルキウス・ユリウスをローマに残して軍を率いて敵地へ侵攻した。敵であるアエクィ人とウォルスキ人が軍を二分しているのに倣い、彼は軍を二分し、一方を自身が率い、もう一方をクィンクティウスに与えた。小競り合いの後、敵は二つの軍で同時に夜襲を仕掛けてきた。ポストゥミウスは軍団長のスプリウス・ポストゥミウス・アルブスをクィンクティウスへの援軍に送りつつ、自らは迂回して敵にあらぬ方向から攻撃を仕掛け、軍団長のマルクス・ファビウスに敵陣を拿捕させた。こうして敵を返り討ちにしたポストゥミウスは捕虜を奴隷として売り、戦利品の一部をラテン・ヘルニキ人に与え、他は競売にかけた。こうして反乱を鎮圧したポストゥミウスは帰国し、凱旋式を挙げた[2][3]。
この戦争にはポストゥミウスの息子も参加していたが、彼は戦いに熱中するあまり持ち場を離れた。そのため、ポストゥミウスは軍規違反として息子を死刑を以って罰したと言われる[4]。しかし、リウィウスはこの話の真実性については否定的である[5]。
註
参考文献
- リウィウス、『ローマ建国以来の歴史』(Perseus Digital Library)
- ディオドロス、『歴史叢書』(Perseus Digital Library)