『論語』の形成と古注の展開

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『論語』の形成と古注の展開』は、早稲田大学孔子学院院長・渡邉義浩が、中国の古典において『論語』はどのように形成されたのか、古注(『論語集解』)の特徴と共に明らかにする目的で書かれた研究書。

内容

本文の正字で表現された原文と諸本との校勘、集解(しっかい)の原文・訓読・現代語訳、さらに詳細な引用を伴う補注と参校、および何晏の「論語序」について考察した『全譯 論語集解』渡邉義浩主編、汲古書院刊、上巻(2020年5月刊)・下巻(2020年9月刊)[1]に基づく中国哲学の研究成果である。

本書の第二章(『史記』仲尼弟子列傳と『古論』)第一節「孔子は『易』を読んだのか」という命題は、たとえば『論語』研究者としても知られる木村英一が『論語』述而篇について詳述した問題提起[2]への回答であり[要出典]、今回の早稲田文庫版『論語集解』(245頁)においても、渡邉は「孔子は『周易』を学んでいなかったことになる。『論語』の中で書名として「易」の字が現れるのは、述而篇のこの箇所だけであり、それが「易」でなく「亦」の字であれば、孔子が『周易』を学んだ可能性は消える」と断言している。無論、これは『東方学』という学会誌上に掲載され、学術出版社の刊行物である点に鑑みても、日本における学会を代表する画期的な論考といえる。[要出典]

今後の課題

ユニークな発想とその着眼点に驚かされる研究書であることはまちがいない[要出典]が、敢えていえば、本書各論の論拠となる基本文献の扱いに慎重さがほしい[独自研究?]従来の研究に多くのほころびがみられるように、中国古典研究のもつ宿命なのかもしれない[要出典]が、今後の課題を示しておきたい[独自研究?]

渡邉はまず序論において「柳宗元は『論語弁』で、『論語』の編者を曾子有子に限定する」[3]と述べるが、これは大きな誤解である[要出典]その根拠として、以下に柳宗元の『論語弁』の原文と和訳を引用しておく。[独自研究?]

〔原文〕或問曰:儒者稱《論語》孔子弟子所記,信乎?曰:未然也。孔子弟子,曾參最少,少孔子四十六歲。曾子老而死。是書記曾子之死,則去孔子也遠矣。曾子之死,孔子弟子略無存者矣。吾意曾子弟子之為之也。何哉?且是書載弟子必以字,獨曾子、有子不然。由是言之,弟子之號之也。然則有子何以稱子?曰:孔子之歿也,諸弟子以有子為似夫子,立而師之。其後不能對諸子之問,乃叱避而退,則固嘗有師之號矣。今所記獨曾子最後死,余是以知之。蓋樂正子春、子思之徒與為之爾。或曰:孔子弟子嘗雜記其言,然而卒成其書者,曾氏之徒也。
〔和訳〕ある人が尋ねて「儒者が論語は孔子の弟子が書いたものだと言っているが、これは本当ですか」と質問してきたので、私は「そうとばかりはいえない。孔子の弟子の中では、曾参がもっとも若かった。孔子よりも四十六歳も若かったのだ。その曾子は年老いて死んだ。この論語という書物の中に曽子の死について書いてあるので、(論語が書かれたのは)孔子の死よりもずっと後のことである。曽子が死んだとき、孔子の弟子は殆どもう生存していなかったはずだ。私が思うに、曾子の弟子が論語を作ったのではないかと。何故か。そもそもこの書物では孔子の弟子について記載するときは字で呼んでいる。ただ曾子と有子だけがそうではない。この点から言うならば、弟子が(この二人を)呼んでいるのである。それならば有子はどうして「子」と呼ばれているのか。それは恐らく、孔子が亡くなったとき、弟子たちは有子の姿が孔子に似ていると思い、彼を一門の代表として師にした。ところがその後、有子が弟子たちの質問に答えることができないので、そこで大声で責め立てて退けたのである。つまりもちろん一時期は「師」と呼ばれていたのである。現在の記録では曾子がもっとも遅く死んだとされている。私はこういうわけで判ったのである。思うに曾子の弟子の楽正子春や子思の弟子たちが、いっしょにこの書物を作ったのであろう」と答えた。ある人が言うには、「孔子の弟子たちは孔子の発言をあれこれ記録していたことがある。しかし最後に論語を完成したのは、曾子の門人たちであったのだ」と。

この『論語弁』において、柳宗元が「最後に『論語』を完成したのは、曾子の門人たちであった」と結論づけており、渡邉義浩が序論にいう「唐の柳宗元は論語弁で、論語の編者を曾子・有子に限定する」という説明はあたらない。[要出典]

早稲田文庫版『論語集解』(245頁)において、「孔子は『周易』を学んでいなかったことになる。『論語』の中で書名として「易」の字が現れるのは、述而篇のこの箇所だけであり、それが「易」でなく「亦」の字であれば、孔子が『周易』を学んだ可能性は消える」と主張するが、定州出土の『論語』は全巻を備える完本でないため、この一例のみで結論づけるには時期尚早であろう。やはり木村の論考のごとく、三種の解読を掲げ、それぞれについての論証が必要なのではないか、とみられる。[独自研究?]

脚註

  1. ^ 『全譯 論語集解』が専門的で難解な内容であるため、早稲田大学汲古書院の出版権を買い取り、早稲田大学の受講生をはじめとする一般者向けの文庫本が、2021年12月に刊行されている。
  2. ^ 木村英一訳注『論語』(講談社文庫 1975年刊)167~169頁参照。
  3. ^ 『論語の形成と古注の展開』序論・三、『論語』研究の視座(13頁)参照。