Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/モンゴルの神聖ローマ帝国侵攻 20220111

モンゴルの神聖ローマ帝国侵攻ノート / 履歴 / ログ / リンク元[編集]

選考終了日時:2022年1月24日 (月) 16:02 (UTC)2022年2月7日 (月) 16:02 (UTC)

  • (自動推薦)2021年12月度の月間新記事賞受賞記事。--totti会話2022年1月10日 (月) 16:02 (UTC)[返信]
  • 賛成 :英語記事からの翻訳にとどまらず、日本語文献も取り揃えて出典とすることで記述をさらに充実させており、またよくまとまっていると思います。良質な記事にふさわしいでしょう。--Sadmadjane会話2022年1月20日 (木) 06:57 (UTC)[返信]
  • コメント 翻訳に日本語文献を合わせることで良い記事になっているものと思います。ただ「背景」節の、「かつての同盟国に歓迎されていたフリードリヒ公は、王をハインブルク城に誘い込み」のところの意味がよくわかりません。ハンガリー王のべーラ4世は、ハンガリーからオーストリアに逃げて、オーストリア公のフリードリヒ2世に助けを求めている場面なのですから、かつての同盟国に歓迎されていたのはベーラ4世なのでは? 英語版原文だと、"Initially welcomed by his erstwhile ally, Duke Frederick lured the king into the castle of Hainburg"で、この最初の節のhisが誰を指しているか微妙なのですけど、ベーラ4世だと考えた方が良さそうに思います。あとは、「6年前に王に支払わざるを得なかった賠償金」のところは6年前にどんな因縁があったのかを補えると理解を促進するのではないかと思います。--Tam0031会話2022年1月21日 (金) 15:52 (UTC)[返信]
  • コメント 記事作成を行ったカラです。コメントありがとうございました。早速ドーソンの『モンゴル帝国史』で確認したところ、該当箇所は明らかに自分の誤訳でしたのでドーソンの記述に基づいて修正しておきました。ただ6年前のオーストリアとハンガリーの因縁については手持ちの書籍には明確な言及がなく、英文版wikiを覗いてもオーストリアが神聖ローマ皇帝フリードリヒと対立した流れでハンガリーとも争ったことが示唆されるくらいで、確かな事情を掴みかねたので加筆は保留しました。他の書籍で詳細に説明しているものを見つけれましたら加筆しようかと思います。--カラ会話2022年1月22日 (土) 15:26 (UTC)[返信]
  • コメント 選考期間終了時点で賛成票のみ2票かつ、一度も自動延長がされていないため、選考期間が2週間自動延長されます。--勝錦会話 - 投稿記録2022年1月25日 (火) 08:55 (UTC)[返信]
  • 賛成 侵攻に至った経緯や、戦闘の進行、相手の対応などが詳しく書かれています。--山形祐介会話2022年2月6日 (日) 02:06 (UTC)[返信]

選考期間終了時点で賛成票3票のため、通過となります。--アリシア-jawiki(勝錦)(会話 - 投稿記録2022年2月8日 (火) 08:40 (UTC)[返信]