Wikipedia:秀逸な記事の選考/飯能戦争 20210911

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賛成/条件付賛成/保留/反対 0/0/0/0 この項目の選考期間は、2021年12月11日 (土) 01:33 (UTC)(2021年12月11日 (土) 10:33 (JST))までです。

  • (推薦)内容が充実しており、多くの出典や写真も使われている。戦争の場面ごとの解説やそれによる影響などが細かく書かれており、秀逸な記事として相応しいと考えます。--Kanninbukuro会話/投稿 2021年9月11日 (土) 01:33 (UTC)[返信]
  • コメント読んでいて思った気になったことがあるので、改善は大変かもしれませんがコメントします。
  1. 檄文からの引用部分、「二百年来の御祖業を一朝にして朝廷え御帰遊ばされ候」とありますが、「朝廷え」は「朝廷へ」の誤字に見えます。原文に「朝廷え」とあるのならすみません。
  2. 「隊内には~両御番の役目に任じられるとの~幕府に期待する者もあったといい~」とあり、「両御番」がそれなりに権威のある役目と見えるのですが、どういう役目なのか注釈で説明が欲しいところです。
  3. 「脱退後、成一郎は~命を狙われる事態となった」の後、急に「成一郎宅襲撃に関わった彰義隊士」の話が出てきていて、違和感を覚えました。そこまで詳細でなくてもよいと思いますが、「成一郎宅襲撃がされた」というような文が必要かと思います。
  4. 「閏4月26日には~激を発するに至った」の「激」はこの字でよいのでしょうか。「檄」の誤字のように思いましたが、判断がつかなかったので書かせていただきました。
  5. 「『高岡槍太郎日誌』によれば~彰義隊を離脱したとしている」とありますが、彰義隊離脱の話を切り出したり、銃を支給したりしたのは成一郎らという認識でよろしいでしょうか。現状だと天野らから話を切り出したと言う風に読めなくもない(そんなことはないと思いますが一応)ので、誰によって銃の支給などが行われたのか示した方がよいかと思います。
  6. 「5月21日朝、同隊の富永栄之助が~」と書かれていますが、「同隊」とは広島藩の三番隊と五番隊のどちらでしょうか。また、大総督府からの御状にある「残り兵四番隊」は何を指すのでしょうか(三番隊や五番隊のことと思いますが)。
  7. 「聖天林、森の内の戦い」の節で、「賊兵」という言葉が使われています。久留米藩兵の記録の要約ということは承知しておりますが、中立的な表現への変更を検討してもよいと思います。「新政府軍の掃討戦と振武軍らの脱出行」節の「賊徒」(こちらは福岡藩による記録ですが)についても同様です。
  8. 「飯能の町の戦い」節、渡辺の岡山藩兵の熟練について語った内容が書かれていますが、「未熟練」と「戦いに不慣れ」は同じ意味のように思えます。同じ意味であれば、現在二文で書かれているのを一文にまとめてしまってもよいと思います。

以上、ご検討いただければ幸いです。なお、「ちりじり」「雲の子を散らすように」との表現は明らかに誤字と判断しましたので勝手ながら修正させていただきました。--勝錦会話)2021年9月12日 (日) 10:01 (UTC)下線部修正--勝錦会話2021年9月13日 (月) 07:39 (UTC)[返信]

  • コメント 気になった部分をコメントいたしますが、主題について詳しくはありませんので、思い違いなどがありましたらご容赦ください。
  • 勝錦さんもご指摘されているように、布陣図や進軍ルートの地図などは欲しいです。日本語版Wikipedia、特に戦史系の記事は他の媒体と比べてこの手の図説が極端に少なく、たまにあっても戊辰戦争のように海外の方の作成に頼っていたりしています。秀逸な記事であればこの手の図説は必須であってほしいです。
  • 大変多くの資料を用いて記述されていますが、彰義隊と郷土史関係の資料が主になっていて、飯能戦争が主題の参考文献は飯能市2011と2012に限られているように思います。飯能戦争で検索すると『平九郎の最期を悼みつつ飯能戦争を想う』澁澤幸子(2021)、『飯能戦争秘話』高麗博茂(1970)、『飯能戦争』新井清寿(1988)など飯能戦争を主題にした書籍・論考が上がってきます。全てを網羅する必要はないのですが、秀逸な記事であれば検索して上位に上がるであろう書籍は押さえておいて欲しいと思うのですが、求めすぎでしょうか?なお、読まれたうえで何らかの理由で記事に引用しなかったのであれば、申し訳ありません。
  • 導入文の「新政府に対し恭順の意を示す徳川慶喜の名誉挽回を目的に結成された彰義隊の~」の部分、本文を読むと名誉挽回は成一郎らの目的であって、どちらかと言えば彰義隊の主流派の目的は新政府への徹底抗戦であったように思います。
  • 「新政府軍の動静」節の記述ですが、主力部隊という単語が2回出てきます。1度目は「5月21日朝~江戸を出立。~翌22日に扇町屋へ向かった」とありますが、2回目に「5月21日午後~扇町屋に到着すると~」とあり、時系列がおかしく感じます。2回目が「5月22日午後」の誤記であれば前後の文と齟齬なく繋がると思うのですが、ご確認ください。
  • 同節の「広島藩は東征軍には神機隊が加わり~」の部分が分かりづらいです。主語は神機隊だと思いますので「東征軍に加わっていた広島藩の神機隊は~」などへの変更が望ましいのではないでしょうか?
  • 「野田、双柳の戦い」節に出てくる「広野」が気になります。おそらく地名だと思うのですが、グーグルで検索してもhitしません。地名であれば他の地名と同様に現住所の補記が欲しいですし、現住所が不明であればこの程度はコメントアウトしても問題ないように思います。あるいは地形などの一般名詞なのであれば平易な文言への言い換えが必要と思います。
  • 「聖天林、森の内の戦い」節の「二時ばかり」の表現が気になります。平易な文言への言い換えが必要と思います。
  • 「新政府軍の掃討戦と振武軍らの脱出行」節の「下畑村」も現住所の補記が欲しいです。他の地名についても今一度ご確認いただけると幸いです。
  • 「成一朗」の名前が4箇所あります。「成一郎」の誤記ではありませんか?
  • 「竹澤市五郎」が途中から「渋沢市五郎」に変わるのは何か理由があるのでしょうか?変名であれば、他の人物同様に断りをいれて記事内では統一する方がよいと思います。
  • 「尾高惇忠」を「惇忠」と略されているのは何か理由があるのでしょうか?尾高姓は一人なので尾高で良いように思いますが。
  • 「振武軍結成」節の役職表で、成一郎は変名と共に記されていますが、惇忠は変名の榛沢新六郎のみになっているのは理由があるのでしょうか?史料によって名前が異なっていることを表現したかったのだと想像しますが、冒頭の名称は渋沢成一郎と尾高惇忠に統一して、史料によって記される名前が違うのであれば、備考での注記などで補足するのに留めるほうが可読性が良いように思います。
  • 最後に個人的な理由になり恐縮ですが、投票行為はしませんのでコメントに留めます。--あずきごはん会話2021年9月16日 (木) 12:59 (UTC)[返信]

賛成 私は賛成でして、訳はあずきごはんさん、勝錦さんの言う通り改良すべき点はたくさんありますがそこまで100%完璧な記事は無いと思います。なので、秀逸な記事に選考することにより編集者が増え、より良い記事になると考えたからです。--トリプルぽ会話2021年9月20日 (月) 06:30 (UTC)[返信]

 追記、誤字脱字等があるそうなので、その点は改良した方がいいと思います。より、賛成から 条件付賛成にいたします。条件は、誤字修正。--トリプルぽ会話2021年9月20日 (月) 06:33 (UTC)[返信]
主執筆者です。コメントいただきありがとうございます。もう少し早く返答なり、作業に取り掛かるべきでしたが、結果として冬場までずれ込むこととなり、申し訳ありません。お二方からご指摘のあった箇所はほぼ修正したつもりですが、編集意図の説明が必要なものについては以下にコメントします。
  • 勝錦さんご指摘の1.の檄文ですが、出典として使用した『新彰義隊戦史』と『豊島区史 通史編 1』、『彰義隊遺聞』(森まゆみ、新潮社、2004年)ではいずれも「朝廷え」と記しています。
  • 5.については、『高岡槍太郎日誌』では「或日彰義隊一統ヘスイツル製ノ銃并弾薬共渡サレシ」とあるのみで、それが誰によって支給されたのかまでは明示されていません。今回の加筆修正で「両陣営の戦力」という節を新たに設け、両陣営の兵力や装備をわかる範囲で記しましたが、その中で高岡の個人所有という形としました。
  • 6.については、執筆の際、神機隊の四番隊とは「忍城下に向かわず、江戸に残っていた部隊」を指すのか、「三番隊と五番隊の残りの兵を再編したもの」なのか判別できなかったため、そのまま記しました。改めて『飯能戦争関係史料集』と『広島県史 近代現代資料編 1』収録の神機隊史料のほか、『行田史譚』(森尾津一著、行田市史編纂委員会編、1976年)収録の忍藩の動向を調べたところ、一旦甲府に向かうように指示され、その準備に追われたものの、甲府方面の無事がわかり、川越藩の応援に向かうことを優先したようです(「広島藩隊長届書」『飯能戦争関係史料集』)。ですので、特に影響のない蛇足的な記述とみて、「5月21日朝~」の箇所を含め省略しました。
  • あずきごはんさんご指摘の参考文献ですが、『平九郎の最期を悼みつつ飯能戦争を想う』は『青淵』2021年3月号に掲載された大河ドラマ化を契機に渋沢平九郎ゆかりの地を訪ねるといった趣旨のもの、『飯能戦争秘話』(高麗博茂、毛呂山町郷土史研究、1999年)は渋沢成一郎と尾高惇忠の逃走を手助けした横手村の住民を讃える趣旨のもの(私の閲覧したものは復刻版)、『飯能戦争』(新井清寿、飯能郷土史研究会、1988年)は幕末からの大まかな流れや、飯能戦争にまつわる言い伝えなどを記したものです。このうち、『飯能戦争』は県下の図書館で手に入りやすく、一部関係史料の原文と意訳された文章が記されていますが、『飯能戦争関係史料集』や他の自治体史で事足りているため、今のところ出典からは外しています。
  • 「導入文」についてですが、役員が一橋家に縁のある者でほぼ固められていた時点では慶喜護持を目的としていたが、徹底抗戦を主張する幕臣らが相次いで加入したことにより変質した。あるいは一橋系の幕臣らが排斥された結果、主戦派が多数を占めた、ということになるかと思います。今回の加筆修正で有志による会合から彰義隊結成初期までの動向を補足しました。
  • 「広野」については、執筆の際に『渡辺清届書』にあるままを記したのですが、『飯能炎上』の31頁では「広々とした野原」と意訳されているので、今回の加筆で「開けた野原」と修正しました。
  • 本文中の「尾高惇忠」については尾高で統一、役職表の「榛沢新六郎」「大寄隼人」については本名に修正し、史料ごとの表記揺れなどについては他の人物とともに注釈節に記しました。
  • 進軍ルートをまとめた地図ですが、現時点ではまだ手を付けるまでには至っておりません。もう少し時間がかかることになるかと思います。--Athleta会話2021年12月11日 (土) 00:53 (UTC)[返信]

選考期間終了時点で選出条件を満たしていないため、見送りとなります。--勝錦会話2021年12月11日 (土) 07:06 (UTC)[返信]