Wikipedia:井戸端/subj/学校記事の教条主義的な文章削除

学校記事の教条主義的な文章削除について[編集]

現状、様々な学校記事が内輪ネタで酷い状態にあるのは憂慮するべき事態です。何らかの歯止めが必要であるかと思います。しかし、それに反発するあまり、過剰な削除主義ともいえるような行為を行う人がいて困っています。

内輪ネタには厳しく対処はするべきですが、それと全ての内輪ウケを教条主義的に削除することは違うはずです。読者がWikipediaで知りたいのは、その学校の「ある程度公的な内輪」な話題であり、そこから垣間見える姿であるはずです。表層的な話題だけ知りたいのであれば、学校の公式サイトを見れば済む話なのですから。

まして、自分が通ったことも見たこともない学校について、「自分の知らないことは全て内輪ネタ」だと決め付けるのはいかがなものでしょうか? 大切なのは、どこまで書けば役に立つ百科事典といえるか、記述のバランスをとることではないでしょうか。そのバランス取りは、教条主義で思考停止していては分からないはずです。「何でもなんでも消してしまえ」という態度は「なんでもかんでも書いてしまえ」という人間と裏表なだけで大差はありません。

一部の方は、学校記事について、内輪ネタを取り締まるような方針を作ろうしているようです。本当に幼稚な内輪ウケのみに適用されるなら歓迎ですが、どうにも行き過ぎた削除主義にお墨付きを与えるだけになりそうな気がして憂慮してしまいます。 皆様は、どうお考えですか?やはり学外の人間が知らないことは、全部「内輪ネタ」なのでしょうか?--121.1.254.211 2007年10月13日 (土) 14:17 (UTC)[返信]

Wikipedia:検証可能性はお読みになりましたか? もしお読みになっても同じ疑問が残ったままであれば、121.1.254.211さんはウィキペディアの編集を行うにはまだ早いと思います。--Dolphined sea 2007年10月13日 (土) 14:37 (UTC)[返信]
一般論としては確かにそうなのですが、今回121.1.254.211氏が問題としている東京学芸大学附属高等学校の記事においては、「内輪ネタ」という一方的な決めつけによって大量の削除がなされています。少なくともそのうちの一部に関しては削除以前に議論がなされてしかるべきものだと思います(詳しくはノート:東京学芸大学附属高等学校#学外の人間の荒らし行為についてをご参照ください)。学校関係記事で「内輪ネタ」と決めつけて議論なしに削除する行為に関して、Wikipediaのコミュニティーはあまりにも寛容すぎるのではないかという疑問は当方も持っています。少なくとも情報としていったん書かれたものであり、プライバシー侵害や著作権侵害等の問題がない以上、削除するには一応の手順(ノートにおける議論)を踏むのがスジではないかと思いますが、いかがでしょうか。--Impromptu 2007年10月13日 (土) 15:26 (UTC)[返信]
一般に、記述の除去の際に、投稿者への礼儀やエチケットを守ることも、大事なことの一つです。また、除去の理由を示し、守るべき方針へのリンクを張るなど方針の理解を容易にすることが望ましいと考えます。編集除去する際には、そのように心がけるようお願いします。しかし、編集除去される側としては、除去されるには、相応の理由があるということを認識していただき、相手のマナーを問題とするのではなく、自身の不備を省みて、以後の編集に役立てて頂くようお願いします。
除去するということは、不確かな情報や百科事典にふさわしくない情報を除去するということで、百科事典を作るプロジェクトとして、信頼性を確保することは、非常に重要なことです。除去した上で、加筆する側が、その情報の信頼性を外部の情報源を示して担保し、その情報源が信頼できるか、百科事典に必要な情報かどうかを議論して、記述を復帰させるというのがスジであろうかと考えます。--Ks aka 98 2007年10月13日 (土) 16:41 (UTC)[返信]
おっしゃることは一般論としては全くその通りです。ただし、今回の場合、「内輪ネタ」の一言だけで詳細な理由も示さず十把一絡げに大量の情報除去が行われています。その中で例えばここの編集において、「本校の特筆すべき点として、進学校としては珍しく男女同数の共学校であるという点が挙げられる。」という記述が理由を示さず削除されています。少なくともこの記述に関しては、2007年東京大学合格者数トップ10の高校[1]において共学校は当該校1つだけであるという客観的・検証可能な根拠が存在し、なおかつその事実自体が百科事典として記述するに値する特筆すべき内容であると考えます。明らかな誤りやプライバシーの問題がある記述を除去することに関しては全く問題ないと思いますが、上記の例のような記述を除去するにあたっては、編集合戦や無駄な論争を避ける意味でも編集前にノートで合意を形成してしかるべきではないかと考えます。逆に言えば、一個人の判断による「内輪ネタ」の一言で十把一絡げに大量の情報を除去する編集をこのまま許容していけば、あちこちで同様の編集合戦や論争が起きるのではないかと危惧します。--Impromptu 2007年10月13日 (土) 21:43 (UTC)[返信]
「進学校」の基準は?という問題は残ります。「2007年の東京大学合格者数トップ10の高校において唯一の男女同数の共学校」というのが、百科事典に記述するに値するかどうかも、意見は分かれるでしょう。まずは出典を付けて記述を復帰させてもよいかとは思います。出典のない記述を除去されたら、投稿者が出典を明らかにして復帰すれば、編集合戦や論争はそれほど起こらないわけで。そもそもは、出典をつけずに書き込む投稿者が方針を十分理解していない、次いで除去した人がマナーに欠ける、除去の理由を考えずに投稿者がそのまま復帰すれば編集合戦になる、という、それぞれに適切ではないところがあるのですね。除去した人にも問題がないわけではないけれど、そこに責任を集中させるのは、正しくないでしょう。出典を付けずに書き込んでおいて、除去には合意を求めるということでは、ウィキペディアに信頼できない記述があふれかえってしまう。投稿する側も除去する側も、それぞれがいろいろ反省したり配慮したりして欲しい、ということです。--Ks aka 98 2007年10月14日 (日) 07:44 (UTC)[返信]
ある程度のご理解をいただいたようで安心しました。一つだけ付け加えると、「出典を付けずに書き込んでおいて、除去には合意を求める」という点について、それはある意味でWikipediaの本質であると理解しています。[2]ただ、あくまでも除去するなと言っているわけではなく、合意を形成すれば除去できるわけですから、「ということでは、ウィキペディアに信頼できない記述があふれかえってしまう。」というのはあたらないのではないかと思います。
念のため誤解のないように当方の主張をまとめておくと、「要出典」や「内輪ネタ」を理由にいきなり情報を除去することそのものに反対しているわけではありません。明らかな内輪ネタが学校記事に多いというのは理解していますし。ただし、「要出典」や「内輪ネタ」という判断はあくまでも個人の主観に基づくものであり、もし書いた側がリバートするなどの行為に及んだ場合には、リバート合戦に入るのではなくノートで合意を形成するなどの冷静な行動をお願いしたいということです。また、出来る限りグレーゾーンと思われる記述に関しては事前にノートで合意を形成していただきたいということです。上記の方針に明記されているとおり、「ある人にとっての改善は、他者にとって冒涜になるかもしれません。事前の警告なしに自分の仕事が水泡に帰すのを喜ぶ人はいないのです。」--Impromptu 2007年10月14日 (日) 21:55 (UTC)[返信]
書かれた側が、除去された時に、出典を付して記述を復帰させれば、その記述が百科事典にふさわしいものであれば、再度除去されることはありません。最初から出典を付して書いていれば、その記述が百科事典にふさわしいものであれば、除去されることはありません。出典を付すという重要な作業を怠っているから、水泡に帰すのです。Wikipedia:検証可能性には
信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。しかし、もしも出典を示す機会を与えずに記述を除去すると、異議を唱える人がいるかもしれません。情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合、その記述をノートに移動するとよいでしょう。または {{要出典}}、{{出典の明記}} テンプレート、{{未検証}}などのテンプレートを張ることもできます。
とあります。リンクされている「編集方針」には、「記事の一部でも除去するときは、以下の理由に該当するものにしてください。」として「検証不可能な内容」が挙げられていることをご確認下さい。
また、「内輪ネタ」が百科事典に不要であることは既に申しあげた通りですから、この場合は出典があろうがなかろうが除去されることになるでしょう。
Wikipedia:検証可能性の方針に沿って考えるなら、現在のウィキペディア日本語版は、出典のない記述に対して寛容すぎる、というべきでしょう。まずは、記述する側が出典を付けて書くことを習慣づける、出典を付けての投稿が当たり前のような感覚をウィキペディアンが共有することがなければ、「閲覧者にとって」ウィキペディアの信頼性は高まることがないでしょう。除去されたら、出典を付けて記述を復帰させる。出典がつけれないような情報は、書かない。それは書こうとする側に求められる。これを守って頂ければ、編集合戦にはなり得ません。
ただし、そのような状況ですから、情報を除去する際に、ウィキペディアの方針として検証可能性を満たす必要があることを説明することは望ましいことですし、その項目の執筆者による除去ではなく編集者/校正者的な作業を中心にして除去を行なっていく利用者ならば、どの項目のどのような記述を除去するかというような判断はあってしかるべきだと考えます。闇雲だったり恣意的だったりする除去、説明や対話なき除去は、エチケットやマナー上の問題として存在しますし、問題のある除去作業がが目に付くことには同意します。その利用者に対して、Wikipedia:礼儀を忘れないWikipedia:ウィキケットWikipedia:新規参加者を苛めないでください

などを示したり、説明やマナーを求めることは、必要です。しかし、彼らに説明を要求することよりも、出典を示すことのほうが強く求められているのです。--Ks aka 98 2007年10月15日 (月) 18:00 (UTC)[返信]

ご安心ください。Wikipedia:検証可能性はもう何度となく読んでいますよ。ノートで議論されている内容も読んでいますし、検証可能性についてもう少し緩やかに考えたい人と、そう思わない人の対立が結構長く続いていることも知っています。卒業生に配られる「学校便り」は検証可能性を満たす資料になるか、なんて話題もどこかでありましたっけ?「学校便り」は「自主公表された情報源:公式サイト」に含まれそうですが、誰でも見られるものではないだけに判断が難しい。
私とて、全く検証不能なことや、修学旅行で何先生がどうしたなんて瑣末な記述を認めろなんて言うつもりはありません。ただ、学術分野以外では検証可能性も独自研究も判断が難しい問題で、議論も紛糾しており、教条主義的にやれる話ではないでしょ、と言っているのです。Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないを100%文言通りに適用すれば、多くの記事で記載が大量に削除されるでしょう。かといって、甘くすれば記事の質は落ちかねない。ウィキペディアの大目標である「質も量も史上最大の百科事典を創り上げる」ためには、各方針のさじ加減が必要で、個々の方針文書の文言を上っ面だけ追っててもダメということです。だから元記事のノートでは「Wikipedia:ルールすべてを無視しなさい#ルールの精神を尊重する」を読みましょうと言ったのです。
例えば今回「冷房の維持費の問題が危惧される」という記述が削除されました。国立附属学校の予算が厳しいことは、それなりの資料を追えば検証できるでしょう。で「予算が厳しい」⇒「冷房の維持費の問題が危惧される」とするのは独自研究でしょうか?それとも、予算が厳しければ冷房維持費が辛いのも当たり前として、自明に導かれる言い換えでしょうか? そういう判断が難しいことを、記事対象の詳細を知らない人が「内輪ネタ」や「主観」かどうか、正しく判断できるのですか?と問うているのです。--121.1.254.211 2007年10月13日 (土) 16:12 (UTC)[返信]
「冷房」についてですが、どうしても掲載したいのであれば、まず、予算の情報源を示し、それが「厳しい」とされていることを示し、それが「冷房の維持費に反映されることが危惧される」ということについての言及を示してください。それでようやく「検証可能性」と「独自研究」の方針をクリアできます。特に判断が難しいことはありません。それと別に、「ある学校の冷房の維持費の問題が危惧される」ことが、百科事典にどうしても掲載すべき内容であるかどうかを考える必要もあるでしょう。
ウィキペディアは百科事典です。一般の百科事典では学校の記事はごく限られた学校しかないでしょうし、幼稚なものはもちろん、公的な内輪ネタも書かれていません。公式のHPよりも充実した記載が必要であると考えるならば、設立時の経緯や、日本の教育史上の役割などについて調べてみて下さい。校史や地域の資料、教育史に関する論文などの情報を用いれば、公式HPよりも充実した記事を作ることは可能です。--Ks aka 98 2007年10月13日 (土) 16:41 (UTC)[返信]
それは完全な独自研究です。出典から推理したものは、それがいかに論理的に妥当な導出であろうとすべて独自研究です。「○○学校は国立附属学校学校である」「国立附属学校の予算は厳しい」「予算が厳しい施設は冷房維持費が辛い」という出典を全てそろえたとしても、「○○学校の冷房の維持費の問題が危惧される」という記述が許されることにはなりません。必要な唯一の出典は「○○学校の冷房の維持費の問題は危惧されている」ということが明確に書かれた信頼できる情報源であり、いくら傍証をそろえてもダメです。なぜなら傍証から結論を導く証明過程は独自研究だからです。これを「検証可能性」と言いますので、もう一度お読み直しください。--QQ81 2007年10月13日 (土) 16:53 (UTC)[返信]

その話をしたいのであればWikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成の方を案内するべきでしょうね。「Aが信頼できる媒体で発表されており、Bも信頼できる媒体で発表されているなら、AとBを組み合わせてCという観点を推進するような記事を書いてもよいと誤解」という話題が書かれているのはそこですから。

しかし同時に、Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料においては「現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査は、もちろん強く奨励されています。そうした記述は『独自の研究』には当たりません?それは『情報源に基づいた調査』であり、百科事典の執筆の基本です」「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説は、一次資料に基づいていてもかまいません」ともあるのです。つまりQQ81さんの言う「直接的に文言そのまま書いていることしか証拠と認めない」という考えは、若干、方針より厳しい。

普通、分別のある大人が考えれば「予算全体が厳しいのに、その一部の冷房費用だけは潤沢」なんて異常な経営と分かるし、「冷房維持費が辛い(予算面で問題がある)のに何も懸念が無い」というのは、分別のある大人が考えれば能天気な経営となるでしょう。とは言え、この「分別のある大人が考えれば常識」というのは、得てして主観的なのも事実で、だからそれら方針全体を読み込んだ上で「判断が難しいこと」と言っているのです。それともQQ81さんは「発表済みの情報の合成」と「情報を集めて整理する調査」の明確な線引きをご存知なのでしょうか?ならば、それを教えていただけると。--121.1.254.211 2007年10月13日 (土) 17:18 (UTC)[返信]

情報を集めて整理するというのは、たとえば冷房費の話なら、国立附属学校の予算とその内訳(冷房費を含む)の一覧表と、「○○学校の校長は文部科学省への報告として冷房の維持費が多額にのぼっていることを経営の課題として述べうんたらかんたら」という記述のある情報源を出典に挙げた上で、「○○学校は冷房費が×円にのぼり、予算の△%を占めていることで予算の問題が危惧されている」のように記述をまとめることです。新しい情報を加えることなく、出展の不要な情報を切り捨てて文章として体裁を整えるのが正しい編集です。「△%」を付け加えたのが「誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」です(冷房費を予算で割るだけですから主観によるぶれはありません)。許されるのはこの程度です。一方、先に例の述べた「○○学校は国立附属学校学校である」「国立附属学校の予算は厳しい」「予算が厳しい施設は冷房維持費が辛い」から「○○学校の冷房の維持費の問題が危惧される」を導出するのは演繹が伴います。一般に国立附属学校の予算が厳しいからといって○○学校の予算が厳しいとは限りませんし、予算が厳しいからといってその主因が冷房維持費とは限りません。それを「○○学校の冷房の維持費の問題が危惧される」とまとめてしまうのは、一見自明そうですが実は新たな情報を勝手に付け加えているのです。こういう編集は認められません。
という説明で納得していただけますかね?--QQ81 2007年10月13日 (土) 17:50 (UTC)[返信]
進学校としては珍しく男女同数の共学校であるというについてですが、男女別学校に比べて共学校は進学校となりにくいという出典が示されなければ単なる事実にしか過ぎないのではないでしょうか。--Tiyoringo 2007年10月25日 (木) 15:19 (UTC)[返信]