Wikipedia:井戸端/subj/原典は参考資料に含まれるのか?

原典は参考資料に含まれるのか?[編集]

「A」という書籍の記事を書くにあたり、記述内容の出典を脚注などで提示する場合、「A」そのものは参考文献として出典・脚注に入れなければならないのでしょうか?

具体的には、漫画かなめもの、(漫画かなめもの)本文を出典とした大量の脚注(漫画かなめもの何ページのどこそこが出典、という脚注)に関してノート:かなめもで議論しているのですが、「(漫画『かなめも』は)一次資料なので出典として必要」という意見があります。記事の主題そのもの(漫画「かなめも」)は参考文献には入らないと思うのですが、どうなんでしょうか?--駄ニメ 2009年11月11日 (水) 01:34 (UTC)[返信]

その資料を実際に見ていて、その記述内容をその資料から得ているなら、情報源として書いてください。それを書くことによって、作品そのものを確認しているということが読者にわかります。--Ks aka 98 2009年11月11日 (水) 01:45 (UTC)[返信]
原典(一次資料)は参考資料に含まれる。だから、出典として提示する必要はある(もっとも、それは書誌情報が担っていると考える)。が、それを逐次的に注釈すべきか?という話なら、ちょっと難しい(ややこしい)ことになると思います。
まず、仮定として記述の全てに情報源を付ける必要があるというならば、例えば主人公(登場人物)の名前や、性別にだって出典を付けて無いとおかしい。しかし、実際にはそんなことにはならない。それは、それが自明なことだからで、わざわざ出典を付けるまでも無いからです(これは別にフィクションに限らず、全ての分野にいえる)。しかし、そうなると、今度は一次資料中にある情報で自明なことと非自明なことの境界線はどこにあるかという議論が必要となる。
1つ言うなら、この問題に関して現状のウィキペディアのルールはあまりあてにならないと思います。基本的に二次資料の活用を前提にルールが構築されており、それを一次資料にも当てはめれば無理が生じるのは道理だからです。だから、一次資料を用いる場合の出典のルール(自明/非自明の区別のガイドラインを示すとか)を作った方が良いかもしれません。
現状において私個人としては、何の脈絡も無く事例を出すのではなく、「○○の時は」「○○編では」と言うように時間軸や舞台をある程度に明確化させてれば、執拗に出典を張らなくても補えて、文章自体もそっちの方が理解しやすいと思ってます。あるいは二次資料の場合には、出典を絶対に必要とすることで、一次資料の情報と区別化するとか(まあ、一次資料との兼ね合い関係無しに絶対に必要な物ですが)。--EULE 2009年11月11日 (水) 05:33 (UTC)[返信]
出典の提示は必要であるが、その呈示方法は<ref></ref>を使った引用形式を使うか、参照文献に提示するかはわかりやすい方を選択すれは良いと考えます。つまり、出典先に引用できるような形で記事と対応づけられる個所があれば<ref></ref>を使えばよいのであって、出典文書の複数以上の章を要約し記事にした場合は、(要約によって)記述と出典元とに対応付けが困難になったのであれば、参照文献を使えば良いと考えます。あるいは参照文献を使うのは、出典元では纏まっていたが、記事にするときにばらばらに分散させたわうが説明しやすかったばあいだと考えます。どちらにしても、出典元と記事との関係がわかり方を選択すべきです。--あら金 2009年11月11日 (水) 06:03 (UTC)[返信]
これについては、以前WORKING!! (WEB版)という記事でいろいろやったことがありますが、作品に関する記事については、基本的にその作品自体が暗黙的な参考文献として含まれるというようなところで落ち着きました。ただし、特徴的な記述や、いわゆる「本編」と呼ばれるもの以外の、外伝やその他の作品で解説されていたものは通常と同じ方法で出典として明記する必要があるでしょう。また、「作品を見れば分かる」と言っても、作品中に明確に示されているもの以外は、その作品への「解釈」となりますから、その記述に対する出典としては認められないことに注意する必要があります。とは言うものの、特にマンガやアニメ作品ではWP:Vなどの方針を理解せず「とりあえず編集してみた」という人がたくさん来るので、なかなか守りづらいところがありますが・・・。--青子守歌会話/履歴 2009年11月11日 (水) 06:27 (UTC)[返信]
「その作品自体が暗黙的な参考文献として含まれる」というのは、その作品自体へのアクセスが容易であり、その他の二次資料が十分ではないような場合に限定されますし、「作品自体」とは、初出誌なのか単行本なのか、なんらかの企画などで公開された原画なのかも明記されなければ分かりません。--Ks aka 98 2009年11月11日 (水) 07:19 (UTC)[返信]
こんばんは。例えば『坊つちやん』の主人公の性格を説明するうえで「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」と表現するとして。これを一次資料からもってきて何か不都合があるのだろうか、とか。一次資料は二次資料が十分ではない時しか使えない代替資料なのだろうか、とか。創作作品記事において一次資料はそれほどに評価の低い資料なのか、とか。二次三次資料は探せばYahoo!百科事典あたりにも「親譲りの無鉄砲で損ばかりしている主人公」となっているので二次三次資料で出典をつけるのは容易だけれども、それが果たして創作作品記事の成長にとって正しい行為なのだろうか、とか。かといってこれだけ有名なフレーズについてまで『坊つちゃん』夏目漱石、新潮文庫、第63版、1頁とわざわざ書く必要があるのだろうか、とか。いろいろ考えるところはありますが、脱線しがちな私が、いつも脱線する話題だとの自覚が深くありますので、考えるだけにして傍観します。--Giftlists 2009年11月14日 (土) 12:47 (UTC)[返信]
「親譲りの無鉄砲で…」という説明は一次資料から、一次資料からだけでよいと思います。Yahoo百科事典でその部分を取り上げているということは、その描写を取り上げることの妥当性を補うという点で意味があると思いますが、不可欠ではないですし、単に本文中での記述をそのまま性格として説明するのならば、一次資料のほうが重要です。テレビ番組とかだと、事後的な検証が可能かどうかというところも絡んできますけれど。漱石ならば、たとえば柳沢浩哉「『坊っちゃん』冒頭の修辞学的分析 : 「現在感」による性格描写を中心に」[1]PDFというような資料もあるようで、こういう資料を探す、という方向性も必要だと思うし、それも重要だと思う。一次資料となる作品そのものから記述をする人は多いので、その重要性があらためて強調される場面が少ない、ということもある。これだと、かなり長く冒頭部を引用していますが、注6で出版元と刊行年が書かれていて、ページ数はない(ただし、本文から「冒頭」であることは読み取れる)。
ただし、記述内容によっては、「一次資料」が、『ホトトギス』版か、岩波の最初の全集か、復刻された直筆原稿版か、というようなことが問題になることもあります。WEB版だと、改変が明示されていなかったりもするでしょうから、いつの閲覧かというのは、けっこう重要で、書かれているものをうっかり書き換えたりするときは、注意しないといけなかったりする。執筆者として、問題が生じないことを十全に理解しているのでなければ、何を見て書いたかを残しておくほうが好ましいと思います。論文やレポートを書きなれていて、ウィキペディアの方針をしっかり考えている人がいるかどうかということはあるけど、どこまで書くか、ということは、執筆者、その記事の執筆者コミュニティにある程度委ねられているところも大きいと思います。そういう意味では、たまに教条的に出典を求める人がいて、他方、書くべき情報源を書かなくてもいいと主張する人もいて、落としどころが探りにくくなっているという面がある。ページ数は、文庫で1冊に収まる程度の小説なら、書かなくてもいいという意見もあると思います。ミステリの伏線を確認するために苦労したことがある人なら、それでも書いたほうがいいと言うかもしれません。漫画であれ小説であれ、10巻を超えるようなものだと、探すのはかなり面倒です。すでに何度も読み返しているような人ばかりが、その記述がどこにあるかを必要としているわけではない、ということは、意識してほしいと思います。
つまり、創作作品記事の成長を考えるときに、執筆者の書きやすさという視点で考えるなら、甘めにしたほうがいいという面があります。他方、誰が書いているかわからない百科事典を読む読者の視点からすると、たいして知識を持たないことについて調べる上で、情報源の有無や書式は信頼性を図る目安のひとつであり、自ら確認するための指針である、ということになります。それなら、詳しい人、書いた人が、ちょこっとページ数書いておくっていうのは、それほど労力を必要とするものではないから、やっておいてほしいなあ、と思う。
検証可能性絡みで、ノートや井戸端で意見を問われるような場合、ぼくとしては、情報源は書かなくていいのではないか、という問いかけならば、書いておけばこういうふうに役に立つから書いたほうがいい、と応じることが多いですが、すべての利用者がやらなきゃいけないということではなくて、書けるなら、その項目を自発的に、積極的に書くということなら書いてほしいなあ、と。--Ks aka 98 2009年11月14日 (土) 16:23 (UTC)[返信]
こんばんは。脱線しないようにすると言いつつ最初から脱線しているじゃないか、とか。脱線ついでに紹介のPDFは興味深いけれども登場人物節の加筆に使える資料ではないような気がする、とか。むしろ人称による自称的説明の扱いかたの方が、とか。そういえば傍観しますと言いながらコメントするのはそもそも傍観じゃないだろう、とか。ただ件のノートで「作品自体へのアクセスが容易」が一人歩きしているのをみて、とりあえずとりとめのない意見でも書いておいてよかったと思ったり、とか。井戸端の意見は一次資料の使用の限定で必ずしも統一されていないと思う、とか。少なくとも私はそこは拘っているところなので納得していない、とか。意見がぼやけてまとまらない時はこの口調は便利だな、とか。そんなことをつらつらと考えつつまとまった時間がとれないので垂れ流しておきます。--Giftlists 2009年11月16日 (月) 15:27 (UTC)[返信]
◆こんばんは。件のノートの2009年11月16日 (月) 18:18 (UTC)の書き込みを拝見し、私がKs aka 98さんの上記2009年11月11日 (水) 07:19 (UTC)の発言の意図を誤解していたことに気づきました。私が上でくだくだと書いているものは、Ks aka 98さんの発言を「原典(一次資料)を参考文献として使用できるのは、その作品自体へのアクセスが容易であり、その他の二次資料が十分ではないような場合に限定される」という意味と取り違えてのものです。……うーん、改めて読み直してみますと、完全な誤読ですね、お恥ずかしい。やはり時間が無い時の議論参加は駄目ですね、誤読して脱線とは……。今後は気をつけます。--Giftlists 2009年11月17日 (火) 15:20 (UTC)[返信]
ノート:かなめも」の議論から来ました。漫画自体を一次情報と見なせるか否かについては、過去に議論もありましたが現在のところは「Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)」の導入によって解決されていると考えます。また、読めば分かるようなことに対して脚注タグを用いた出典の提示を求められた場合の対応としては、井戸端にも「/subj/Wikipedia:出典を明記する の「必要があれば」の解釈」のような先行する議論もあったと承知しています。一方で今回「ノート:かなめも」で問題になっているのは、加筆者の方が自発的に自分の加筆部分、あるいは査読を行った部分に逐一脚注による出典を示していった結果、脚注表示が多すぎて可読性を損なっているという意見が出ていることです。そうした大量の脚注はウィキペディアの方針を曲解した記事破壊ではないか、ウィキペディアのガイドラインやコンセンサスに則って過剰な出典を減らすことができるのではないか、というのが駄ニメさんの主張であると把握していますが、こちらの議論を拝見した限りではそういった観点は少ないようにも感じています。
大量の出典を「見づらい」と言われる程大量に探し出して追加することは非常に骨が折れることで、強要されるのは困る方もいると思うのですが、自発的に追加する分については単純に可読性のみが問題視されているものであると考えます。これについては大量の脚注を見づらく感じる者が自発的にユーザースタイルシートへ、
sup.reference {
  display: none;
}
のような記述を追加することによって、脚注の[1][2][3]といった表示を不可視にすることが可能なのですが、IPユーザーはこの方法を使うことができません。ウィキペディアの機能として、面倒な設定を行わなくてもワンクリックで脚注の表示/非表示を切り替えることができるようになれば、このような問題は解決するかも知れませんが、百科事典の機能としてはどうなんだろうという気はします。--Kanohara 2009年11月12日 (木) 01:10 (UTC)[返信]
コメント 脚注の多さに目が行きがちですが、かなめもに限れば、原典のみに依拠した執筆者の分析や解釈、評価が多すぎる点に問題があると思います。例えば、「-な性格。例1、例2、例3…。」という典型的な構成の文章は、一見すると複数の脚注を含んできっちり記述されているように見えます。しかし肝心の性格の説明部分には出典が無く、作品そのものは情報源としての役割を果たしていません。別の言い方をすれば、脚注の多くが独自研究の根拠となる描写を示すに留まっています。可読性や体裁上の議論をする前に、記事内容の吟味が必要だと思います。- NEON 2009年11月12日 (木) 03:40 (UTC)[返信]
私は可読性が損なわれているとは全く思いませんでした。NEONさんのご指摘については判断できるほどの知識がありませんが、このような議論ができるのも脚注が書かれているからであり、そもそもこのレベルまで脚注が書かれていない記事では検証ができないでいるだけだと思います。--アルビレオ 2009年11月12日 (木) 12:56 (UTC)[返信]
コメントそれはそうだと思います。脚注で可読性が損なわれているわけでも無いし、脚注あってこその議論です。自分が言いたいのは、かなめもは可読性という最上位のレイヤーで脚注の削減もしくは不可視化を検討するのは尚早にすぎるし、逆に出典の明記だ、検証可能性だと言って、この調子で前述のような脚注を増やすのも不適切だということです。- NEON 2009年11月13日 (金) 04:07 (UTC)[返信]
コメント すいませんが、ここでの話題は「原典が参考文献に含まれるか」なのか「大量に脚注することが悪いことか」なのか、どちらでしょうか。2つの話題を議論していては話が混線していい議論が出来ません。どちらかならどちらかに、両方なら節を分けるなどしてください。--青子守歌会話/履歴 2009年11月13日 (金) 09:41 (UTC)[返信]
質問主です。大元の質問は「原典は参考資料に含まれるのか?」ですが、それに付随して「原典は参考資料に含まれるとしたら、どの程度の出典・脚注が必要か?」という質問です。分かりにくくて申し訳ありません。(質問の元となったノート:かなめもで大量の出典・脚注が必要かどうか問題になっているので、どういう意味で質問しているのか分かっていただけるだろうと思い込んでいました。すいません。)--駄ニメ 2009年11月14日 (土) 23:56 (UTC)[返信]
コメントおそらくは「他の記事で出典の無い記述を削除された利用者が、原典をを出典として過剰に脚注をつけた。過剰についた脚注をその量をもって制限する方法が思い当たらない。そのため原典は出典として利用できないということを根拠に過剰な脚注を制限したいが可能か」という流れなのではないかと思います。--Himetv 2009年11月13日 (金) 10:23 (UTC)[返信]
(駄ニメさんのコメントに対応して追記)確かに現状の「かなめも」の脚注は多すぎる印象を与えると思います。実際に見てみると原典のコマ単位の指定でばらばらにされていますが、これをページ単位(漫画以外の活字の本でもp XXまでの指定が普通でP XX l Xまで指定されることは少ないです)で指定し直し、ref nameでまとめることで見た目の分量は減らせるのではないかと思います。脚注そのものの分量よりもそうした部分が未整理な印象を受けました。--Himetv 2009年11月15日 (日) 13:04 (UTC)[返信]

コメント記事を見ましたが、根本的に情報過多になってると思います。たとえば登場人物の身長、体重が必要とは思えません(これが物語の重要なキーポイントになってるなら別ですが)。要らない記述に出典がてんこもりになっていると感じました。--123.230.39.237 2009年11月13日 (金) 14:32 (UTC)[返信]

コメント まず表題の「原典は参考資料に含まれるのか?」については、含まれて当然でしょう。Wikipediaの執筆において一次資料よりは二次資料を優先するという原則はありますが、だからといって原典(一次資料)を出典として記事を書いていけないということにはなりません。やってはならないのは一次資料を使って勝手な解釈をやって「独自研究」の領域に踏み込むことです。それを避ける意味で、一次資料よりは二次資料を使うことを推奨しているのではないですか?

次に、大量の脚注(出典)についてですが、元来、脚注というのは可読性を損なわないように注釈をつけるためのフォーマットです。ですから、小うるさいほどの出典を脚注化しているのは原則に則った処置と言えますから、非難には値しないと考えます。そして実質を変えずに脚注を整理して数を減らす方法も無いわけじゃありません。

ただ、私見によれば本件の問題点は、百科事典として本来記述するに値しないようなどうでも良いような記述なのだと考えます。下らない記述を守るために原典を出典にして脚注をつけた編集者が居たのです。それが大変にうざったく見える。そこは私も合意できますし、言葉は悪いですか阿呆かと思いました。そして、それを崩すために「原典は出典になり得るか」という倒錯気味の議論に発展したのだと思います。でも、本当の問題は「特筆性」なのではないでしょうか。--おーた 2009年11月17日 (火) 12:03 (UTC)[返信]

コメント 「かなめも」の記事においては冗長な記述が多すぎるように思える、という点については同意します。ただ、何が重要な記述であって何が重要ではないか、というのは多くの記事において編集者個人の判断で分かれる部分でもありますし、記述を残すべきかどうか迷った記述に対して、後で誰かが推敲する際に判断できるようにと脚注で出典を示しておくのは悪くないと考えます。上記でアルビレオさんが仰るように、ここまで脚注による出典が示されてこそ出てくる議論だと考えます。
私がある記事で経験したことなのですが、原作を読んでいるはずの自分が知らない登場人物についての加筆を見かけ、それが自分の見落としか、あるいは単行本未収録エピソードか漫画以外の媒体で発表されている外伝的作品、もしくは自分の地域では一週遅れで放送されているアニメ版のエピソードなどに登場する人物なのか、はてまた原作者のインタビューや雑誌記事などの二次情報に基づく情報であるのかが分からず、これは何かの誤情報ではないかと思って記述を頼りにネットで検索してみると、確かにファンの間では知られている人物であるらしいことが分かったものの、情報の出所については分からずじまいでした。これでは、その人物が記述に値する重要人物なのか、本編を読んでいても見落とすような端役なのかも分からず、手に負えなくなって{{要出典}}を貼り、ノートで相談を持ちかけ、最終的には該当箇所の加筆を行った執筆者さんに会話ページで問い合わせる羽目になり、ようやく単行本内のとあるページのとあるコマで、台詞の端にさり気なく言及されている、現時点では重要でない本編未登場の人物についての記述であることが分かりました。個人的には、こうした判断をする上でも、可能な限り出典はあった方がいいと感じています。--Kanohara 2009年11月17日 (火) 15:02 (UTC)[返信]