Wikipedia:井戸端/subj/「発売予定」はどの程度の記述が程良いか?

「発売予定」はどの程度の記述が程良いか?[編集]

漫画やアニメ等を原作としたゲームが発売予定です。ウィキペディアとしては原作またはアニメの作品ページが既にあるため、新しいページを作るのではなく既存のページに「ゲーム節」を書き加える事になります。さて、発売予定のゲームの事柄を「発売予定」として書き加える場合、記述する情報はどの程度の量が「予定」を書き込む場合にふさわしいと思いますか? ご意見をお願いします。具体的な話をすれば「GA 芸術科アートデザインクラス」の発売予定のゲームの記述に関して、「脚注の付け方がくどい。文章を整理すれば脚注は一つで済むのではないか?」という話がありまして、記述者は出典の正当性を主張して譲らず、部外者として当方が「こうすれば出典を減らして記述をすっきりさせられるよ」という例を出しても見当違いの反論ばかりで議論(?)が迷走しています。当方としては「予定は予定に過ぎないのだから公式ページのみを出典として『こういうゲームの発売予定がある』程度で十分」だと思うのですが、どうでしょう? 某氏の主張するように「原作者原案のオリジナルキャラがPCとして登場する」レベルの情報を複数の出典を提示してまで予定を書き込む事に意味があるのでしょうか?(本当に毎度つまらない話を持ち込んで申し訳ありません。)--駄ニメ 2010年1月21日 (木) 02:04 (UTC)[返信]

ノート:GA 芸術科アートデザインクラスで、コメントさせていただきました。--mizusumashi(みずすまし) 2010年1月21日 (木) 09:24 (UTC)[返信]
駄ニメさん、こんにちは。何度もご苦労様です。ただ、駄ニメさんに厳しいことをかいていらっしゃる方もいらっしゃいますので、一度問い合わせたことに関しては、丁寧にクロージングしておかれるのがよろしいかと思いました。毎度、出典の付け方関係の話題ですしね。「毎回々々、細かいことばかり聞いてくる野郎だな」とウザったく思う人を少しでも減らす努力をしておかれるのが宜しかろうと思います。
それはともかく、「脚注がくどい」のでなんとかしたいという動機があるようにお見受けしました。無駄話っぽく学術論文の話をしておくと、あの世界では、話題にされている記事で示された脚注の量ぐらいは何程のものでもありません。脚注がきちんとついた論文はそれだけで信用度が上がりますし、論文を読む上で脚注はたいへんにありがたい情報なのです。どれだけありがたいかと言えば、脚注にあげられている出典を見ているだけで、その論文の著者の頭の程度が知れるのであります。だから、性格の悪い研究者は「へっ。この程度の文献しか知らねぇのかよ。ば~か」とか嘲笑しながら脚注を読みます。研究者って嫌な人種ですね、、、などという無駄口はこのあたりにしておきましょう。ともかくも、脚注というのは本文を乱さずに、有用な情報を提供してくれる手段ですし、検証可能性を煩く求めるWikipediaではことに重要な手段です。ですので、脚注を減らそうという駄ニメさんの一連の活動自体はコミュニティの同意を得にくいと思いますよ。
似たようなことを昨年の11月にも駄ニメさんが投稿した話題で書いた覚えがあるのですが、駄ニメさんがウザったく思うのは、「脚注の量」や「脚注の存在」なのではなくて、「脚注を盾にして下らない記事を守ろうとする作品ファン達の行為」ではないかと思うのですが、思い過ごしでしょうか? もし、そうだとするとこれまで駄ニメさんは「原典を出典に使って脚注として付けていく行為」や、「4コマ漫画のコマ数まで指定して脚注化していく行為」や「4コマ漫画のコマ数指定で、p.65の7コマ目などと指定する行為」などに異を唱えて来られましたが、本筋を攻めずにどうでもよいことばかりを議論しているように思えます。しかも、原典を出典に使うこともコマ数を指定することも「時には」許されますから駄ニメさんの議論の進め方は、迂遠な上に自爆パターンを走っておられるだけです。これでは、論敵の人々から「枝葉末節で絡んできて難癖を付けるトラブルメーカー」と見られるだけなのではないかな。
アニメやマンガの登場人物の紹介やゲームの発売予定が事細かに書かれた記事を見るたびに、「Wikipediaはファンサイトじゃないんだから、いい加減にして欲しい」と個人的には思います。アニメやマンガの編集コミュニティに属する方々には、「そういうファン根性丸出しの記事は時として醜悪とみられる」と自覚して欲しいなぁ、とも思っています。でも、あの分野の記事を書くために集まっている人々がそんな風な記事しかイメージできないんだとしたら、それはそれで仕方ないですよね。コミュニティの合意を形成していくことでしか、状況は動かないんです。駄ニメさんのように、細かいルール解釈(しかも、外れた解釈が多い)ばかりで戦っても、何も変わらないように思えるのですよ。ご自重されることを望みます。
どうしてもストレスが溜まるのであれば、前述したような「性格の悪い研究者」的に身を処すのはいかがでしょうか。つまり、執筆者に出典を明示させた上で「やっぱ、この程度の論拠かよ。しかも、相変わらず原典を自分で解釈した独自研究っぽいのばっか。頭悪いな~」と、こっそりディスプレイの前で嘲笑しておられればよいのです。(こら、こら>自分) それをそのまま投稿するのは*絶*対*に*やってはいけませんが、時としてはそのような背徳に満ちた憂さ晴らしもやってみられては。そんなことをやっていれば、そのうち自己嫌悪に陥って、そのまま目出度くWikiBreakして、この鬱陶しいコミュニティからオサラバできるかもしれません。
以上です。戯言で気分を害した方がおられましたらご容赦ください。--おーた 2010年1月21日 (木) 13:40 (UTC)[返信]
いろいろとありがとうございます。できれば今回の件は「出典」関連と切り離して「予定ってどの程度書いておけばいいの?」という点でのコメントをいただきたく思います。前回の件は某氏が納得はできないまでもそれなりに理解されたようで問題はある意味決済みなのですが、当方としてはもう少し意見が聞けないかと思っております。--駄ニメ 2010年1月22日 (金) 01:18 (UTC)[返信]
やはり戯言では分かっていただけないのですね。じゃあ、駄ニメさんにはとても失礼な表現を伴いますが、もう少しはっきり書きましょう。「枝葉末節のスタイルに拘って議論しても不毛。駄ニメさんのように外し気味のルール解釈で議論を仕掛け続けても、コミュユニティーの中で問題投稿者扱いされるだけ。Wikipedia記事のあるべき姿についての議論をリードできる技量が伴っていない(ルール解釈すらも未熟な)のだから今は手を引きなさい。」これでお分かりですか?
個人的な意見を言わしていただければ、ゲームやマンガの「発売予定」情報は余程のことでない限り特筆性などありません。「百科事典でそんなことまで書くな、バカ」とも心の中で思っています。あ、書いちゃいましたね。まあ、いいか。でも、ゲームやマンガの発売予定情報がとっても大事な人はそこに「特筆性」を見出し、それはWikipediaで書くに値することだと考えていらっしゃる。その気持ち自体は尊重しなくちゃなりません。そして彼らは「Wikipediaでは速報性を求めない」といった概念すら解釈し直して合意を形成しています。それと連動しているのが「出典さえあればいいんだろう」的な書き方の増加です。駄ニメさんがやっていらっしゃるのは、そういう流れに逆らうことなので、かなり戦略的にやらないと馬鹿扱いされてお仕舞いです。ところが駄ニメさんは、細かいルール解釈を逐一井戸端で問い合わせながら論敵に喰らいつこうとして、およそ戦略的とは程遠いところで(本人にとっても周囲の人間にとっても)無駄な力を浪費させてしまう。
たとえば、私がここで「発売予定なんか書く必要はない」と書いたとしましょう。それを駄ニメさんが議論中のノートページに持ち帰って「井戸端ではこう言ってますよ」と自説の補強材料に使うとする。でも、同種の議論は私が知る限りポータルやらプロジェクトページで行われた筈で(かなり膨大にありました)そういうのと無関係に井戸端での意見をホイと、もっていったところで、まともな議論になるとも思えない。議論を仕掛けるのは、もう少し先でよろしいのではありませんか?--おーた 2010年1月23日 (土) 03:48 (UTC)[返信]
当方、井戸端会議参加者さんの「意見」を聞きに来ているのですが。『細かいルール解釈を逐一井戸端で問い合わせながら論敵に喰らいつこうとして』るのではなく、当方の解釈との差異を確認するための行為です。利用者により方針やガイドラインの解釈が異なる場合があるのは厳然たる事実ですので、意見が対立してそのまま一歩も引かずに議論しても何の解決にもなりませんから、井戸端会議で実際の編集に全く関わらない方に意見を聞くのは当事者にとって有効だと思います。おーたさん、何か勘違いしてらっしゃるのでは?--駄ニメ 2010年1月23日 (土) 12:03 (UTC)[返信]