Wikipedia:井戸端/subj/「公刊された出版物」イコール「信頼できる資料」なのか?

「公刊された出版物」イコール「信頼できる資料」なのか?[編集]

ノート:朝鮮進駐軍において、出典の信頼性について議論していたところ、あるIPユーザの方から、「自費出版や個人のブログではない、公刊された出版物は、編集査読を経ているので、信頼すべき出典であり、その信頼性を否定するなら、否定する側に論拠が必要である」という旨の主張がありました。信頼あるメディアによる事実関係の報道を旨とする出版物や、そのジャンルで認められている専門家による専門分野の論考等ではそうであっても、主義主張を旨とした出版物や、編集査読のプロセスが明らかでない出版物においては、「公刊された出版物」イコール「信頼できる資料」とは言えないというのが常識的判断であり、IPユーザの方の主張は、方針に対する大幅な「新解釈」だと考えます。ただ、このような話題を、一つの記事の議論中で扱うのは不適当であろうと思い(同様の傾向の主張が、他の記事に対しても飛び火して拡散するかも知れません)、ここで皆様のご検討をいただきたいと思います。--J Stalin 2011年10月19日 (水) 03:38 (UTC)[返信]

コメント 良い機会ですので逆にお尋ねしたいのですが、Wikipedia:削除依頼/劇団アーノルドで述べられている主張とのダブルスタンダードに付いて、どの様にお考えですか?
ノート:キム・テヒと合わせて、私にはご自身の主張にそぐわない出典は全て「信頼性無し」と言ってる様にしか見えないのですが・・若しくは、先月のご自身の見解の誤りを反省して、その反動で反対方向に極端な解釈が進んでしまったと言う事でしょうか。
いずれにせよ、信頼性や記述方法に関する認識はIPユーザの言の方が正しいです。(と言うか、結局争点の有る事柄に対しての一つの見解なのだろうから、歴史問題で信頼性をどこまで担保出来るの?って話にもなりますよね。) ただその話と中立性を如何に担保した記述(両論併記や記述量のバランス)にするかは別の問題として有るでしょう。
但し、余りにも世間一般で受け入れ難い事柄を主張している出典で有る場合は、こんどは特筆性が有るのか?と言う論点にも成り得ますが。
--Toshi999 2011年10月19日 (水) 04:17 (UTC) 追記:--Toshi999 2011年10月19日 (水) 05:11 (UTC)[返信]
コメントそれは「方針に対する大幅な新解釈」なのではなく単なる詭弁です。「馬でないものは白馬ではない」からと言って、「馬であるものは白馬である」と言うことは出来ません。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年10月19日 (水) 05:01 (UTC)[返信]
  • 自費出版やブログ等でなく、またその方面についての専門家であるとみなされる方の著書ですと、「たとえWikipedia編集者にとって不愉快きわまりない記述」であっても紹介を拒否することは困難だとおもいます。一方でその記述について別の同等程度以上の信頼性をもつ著書により反論されている場合は両論併記で紹介することができます。この場合は記述の中立性が非常に重要で慎重な記述を行わなければあたかも一方が正しく一方が誤っているかのような結論を暗示させかねないむつかしい記述が要求されます。明確に誤りであると複数の批判があり、すでに通説化しているとみなせるものについては、Wikipedia編集者間で議論し、投稿希望者を説得し除去しても良いのではないかと思います。なお写真等の一時素材は取り扱いが難しく、ある事件の証拠写真とされるものに有力な反論(捏造である・別の写真である等)批判がある場合は、写真は両論併記できませんので、キャプションで両論併記するにせよ中立性を維持することは非常に困難であり(写真塗布されていることそのものが一方の主張の正統性を暗示させてしまう)「批判のある一次資料の無批判の採用」原則で、掲載を拒否すべきだと考えます。いずれにせよTemplate:信頼性要検証などを利用し、時間をかけて編集検討をおこなうのが良いと考えます。--大和屋敷 2011年10月19日 (水) 05:12 (UTC)[返信]
コメント信頼あるメディアによる事実関係の報道を旨とする出版物や、そのジャンルで認められている専門家による専門分野の論考等ではそうであっても、主義主張を旨とした出版物や、編集査読のプロセスが明らかでない出版物においては、「公刊された出版物」イコール「信頼できる資料」とは言えないというのが常識的判断であり、「自費出版や個人のブログではない、公刊された出版物は、編集査読を経ているので、信頼すべき出典であり、その信頼性を否定するなら、否定する側に論拠が必要である」というのは、正しくないです。常識的判断ですから、わざわざ井戸端に持ち込む必要はなく、個別に説明してください。
しかし、当該ノートでのIPさんの主張は、J Stalin さんの理解とは異なるようです。
「公刊された出版物」が、すべて「信頼できない資料」ではないため、<「公刊された出版物」がどれも同じように出典として使えるわけではありません>(J Stalin さん)。しかし、正しさについて信頼できない資料であっても、過去の真実として、間違った通説として、噂として、娯楽として、一般に影響を及ぼした事柄であるならば、正しいこととしてではなく、そのようなものとして取りあげていることが読者が容易に理解し、誤った理解をしないように配慮しながら、掲載する上での情報源としては使うことができます。
<中立性とは多数派の意見を多数派の意見として書き、少数派の意見を少数派の意見として書くというもの>(IPさん)であって、偏った考え、偏ったと考えられている著者による主張であっても、少数派の意見として取りあげるに足るものであれば(その意見が存在するとしても、それだけでは取りあげるに足るとは言えません)、少数意見を排除するのではなく、併記することが好ましい。これは新解釈ではなく、中立的観点の正しい適用でしょう。
「名称」が存在していたことを示す上では、その存在を示す用例としての信頼性が担保されれば足り、J Stalin さんがいうところの「山野車輪や西村幸祐といった嫌韓シンパ」(実際どうなのかは知りませんけれども)が情報源であっても問題はないでしょう。ただし、いま用いられているというよ用例に過ぎないのか、かつて使われていたことを示しているのか、かつて使われていたと主張しているのか、というのは、挙げられている書籍を確認する必要があると思いますし、「僭称していたとされる」という部分についても同様です。--Ks aka 98 2011年10月19日 (水) 05:13 (UTC)[返信]
>「自費出版や個人のブログではない、公刊された出版物は、編集査読を経ているので、信頼すべき出典であり、その信頼性を否定するなら、否定する側に論拠が必要である」というのは、正しくないです。
とのことですが、後段の「その信頼性を否定するなら、否定する側に論拠が必要である」も正しくないと言うことでしょうか?
確かに「公刊された出版物」イコール「信頼できる資料」とは言えないでしょう。しかし、出典の信頼性を否定するなら、否定する側に論拠を示す必要があるでしょう。つまり、「この資料は公刊された出版物だが信頼できる資料ではない」と主張するならそれなりの根拠を示すべきだということです。そうでなければ、自分の気に入らない記述は全てと難癖つけて除去することができちゃいますよね。根拠を示さずに自分の主観で「この資料は信頼できない」と主張されも、出典を示した側は対応のしようがありませんし。対話のキャッチボールが始まるわけないでしょう。--uaa 2011年10月19日 (水) 09:31 (UTC)[返信]
言葉遊びになってますよ。
「その信頼性を否定するなら、否定する側に論拠が必要である」は正しくない
  1. 「その信頼性を肯定するなら、肯定する側には(自費出版や個人のブログではない以上の)論拠が不要である」は正しくない
  2. 「否定する側に論拠無しにその信頼性を否定することが認められる」は正しい
ここでKs aka 98氏が言っているのは1.の意味でしょう。否定するにも肯定するにも相応の論拠は必要だ、という程度の意味でしかありません。ま、誰も何も言わなければ問題無しと推定されるわけですから、わざわざ一々論拠を書いていく必要も無いわけではありますが。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年10月19日 (水) 09:48 (UTC)[返信]

コメント 皆様、続々とコメントいただき、ありがとうございます。一部に、小さな誤解と言いますか、どれが誰の発言かについての混乱があるようにも見えますので、念のため・・・

  • 私、J Stalinは、ノート:朝鮮進駐軍においては、2011年10月8日 (土) 11:09 (UTC)以降、議論に参加しております。
  • この井戸端で私が「IPユーザの方」と呼んでいるのは、218.226.121.140さんのことです。前のほうに別のIPユーザの方がおられますが、そちらではありません。署名忘れ J Stalin 2011年10月19日 (水) 09:20‎ (UTC)--J Stalin 2011年10月19日 (水) 11:00 (UTC)[返信]

コメント さて、本題に戻ります。Ks aka 98 さんの段落分けが読みやすいので、その分け方を借りて私の思いを書きます。

  • 第一段落:『信頼あるメディアによる事実関係の報道を旨とする出版物や、(中略)わざわざ井戸端に持ち込む必要はなく、個別に説明してください。』 -- 私としては、この「わざわざ井戸端に持ち込む必要」のないはずの部分が、揺るぎない方針でありコンセンサスとして確立されていることがわかれば、まずは一安心です。推察するに、この点に関しては、世界最狂の魔法使いCray-Gさんも、大和屋敷さんも、異論はないだろうと思います。この点について、Toshi999さんや218.226.121.140さんは、同意いただけるでしょうか?
  • 第二段落:これは記述の根拠、二次資料としての通常の用法とは少し異なる、一次資料的な(「このような言説が存在した」ことを示す現物としての)出典の用法を指しておられると思います。この用法が「アリ」なことは、私ももちろん同意です。
  • 第三段落:事実関係や観点について、複数の説があり、いずれも決定的に排除できない場合に、多数説以外に少数説も記載して、読者の理解が一方的にならないようにすることを言っておられると思います。これも、原則的に同意です(ただし、疑似科学のような、専門家からは相手にされていないが根強い支持者が掲載を要求するような場合に、同等の扱いをしてよいとは必ずしも思いません)。
  • 第四段落:名称の初出に関する取り扱い方です。『いま用いられているというよ用例に過ぎないのか、かつて使われていたことを示しているのか、かつて使われていたと主張しているのか、というのは、挙げられている書籍を確認する必要があると思いますし、「僭称していたとされる」という部分についても同様です』というコメントに、全く同意です。そして、実は、当該記事に関する最大の問題はここにあると思っています。すなわち、初出を示す一次資料が、直接的にも、間接的(二次資料による存在証明)にも明示されていないこと(それを指摘する本文記事への注記をされる方が時々おられますが、すぐリバートされるようです)。なにしろ、記事全体が『嫌韓流の真実!ザ・在日特権』と『マンガ 嫌韓流』を典拠として維持されている有様ですので・・・署名忘れ J Stalin 2011年10月19日 (水) 09:20‎ (UTC)--J Stalin 2011年10月19日 (水) 11:00 (UTC)[返信]
上でKs aka 98さんの発言への疑義として述べましたが、「資料の信頼性を否定するのに論拠は必要ない」というのも揺るぎない方針でありコンセンサスとして確立されているのでしょうか?確立されているのなら、その根拠(方針の記述や合意された議論の過去ログ)を示していただきたいです。--uaa 2011年10月19日 (水) 09:45 (UTC)[返信]
ぼくが引用した「自費出版や個人のブログではない、公刊された出版物は、編集査読を経ているので、信頼すべき出典であり、その信頼性を否定するなら、否定する側に論拠が必要である」が、すなわち「資料の信頼性を否定するのに論拠は必要ない」と要約できるものではないと理解していますけれども。「資料の信頼性を否定するのに論拠は必要ない」というのも正しくないと考えます。多少正確に書くなら、「自費出版や個人のブログではない、公刊された出版物は、編集査読を経ている」としても、そのすべてが「信頼すべき出典」ではなく、一般的な、またはその分野に応じて専門的な立場から「信頼すべき」または「信頼すべきではない」ということが共通認識としてあるのでなければ、「信頼すべき」「信頼できない」という主張をするには論拠が必要。ならばよいでしょうか。--Ks aka 98 2011年10月19日 (水) 12:34 (UTC)[返信]
そういうことなら私も同意見です。Ks aka 98さんのお考えを確認できて安心しました。しかし、J Stalin氏はそうは考えていないようですね。ある会話ページで以下のように述べています。
>出典「A」に「X」という内容が書かれているとき、
>「X」の信憑性を疑う人は、「A」の記事は捏造だという証拠を示す必要はありません。
>「X」が真実と主張する人は、「A」の記事が、実在する一次情報から正しいプロセスを経て作成された二次情報であると示す(普通は、そのクオリティを保っていると推定される「信頼性の高い情報源」であると示す)必要があります。
>立証責任は記述をする側にある、というのは、こういうことです。
この考え方こそ方針に対する大幅な「新解釈」だと考えますね。捏造だという証拠が示せなくても、内容を否定する、或いは異なる見解がある旨の出典を示す義務はあると思います。--uaa 2011年10月19日 (水) 18:38 (UTC)[返信]


  • (コメント) 自費出版や個人のブログより、公刊されたものの信頼性が比較的高いのは事実だと思いますが、それと公刊されたものが絶対に信頼できるかどうかは別問題。--まっとん 2011年10月21日 (金) 09:23 (UTC)[返信]

コメント たぶん、私とuaaさんの意見は、文面ほどにはかけ離れていないのだろうと思います。

  • 実際には、出典を示して記述を行う際に、示した出典の名前や属性情報から、「これは、クオリティ・ペーパーに掲載された報道記事である」「これは、その分野では定評のある専門家が、証明済みの事実として著書に記載しているものである」といった共通理解が執筆者と読者(あるいは議論参加者)の間に成立しているので、暗黙の立証が行われているのです。一般的な日本人であれば、日経新聞の市況欄と、東京スポーツの宇宙人の写真とが、同じ信頼性を有するとは考えません。常識があるからです。
  • しかし、話題が共通の日常生活圏から離れていくと、通用する常識の範囲がだんだん限られてきます。ワシントン・ポストニューヨーク・タイムズはクオリティ・ペーパーだが、ワシントン・タイムズは要注意で、ニューヨーク・ポストも怪しい、あたりは初心者向けと言いますか序の口で、どこの国の何というメディアなのかもわからないものが出てくると、さすがにそれが何であって、なぜ信頼を置くことができるのか、説明が必要だと思います。また、専門家は専門家でも、トンデモ本や疑似科学的な意味での専門家では何の意味もありません。その専門家が、当該ジャンルのプロフェッショナル達の間で認められている存在なのだ、ということは、何らかの形で説明できるのが当然と思います。
  • 今回、議題を設定した発端は、出典が実質的に『嫌韓流の真実!ザ・在日特権』と『マンガ 嫌韓流』だけ、しかも用語の初出時期を証明する一次資料なし、という貧弱な根拠で項目が維持されている状況に対して、出典ありと言えるのか?ということでした。もしも、主義主張バリバリ系の書籍がすべて二次資料として採用可能であり、それに反対するなら反対主張の書籍を持ってこい、それを両方並べて書いたら中立性は担保されるんだからいいじゃないか、などとという掲載基準を各項目で採用したら、それはもはや百科事典ではなく、論争資料集になってしまうでしょう。-- という問題意識からスタートしています。--J Stalin 2011年10月20日 (木) 08:46 (UTC)[返信]
コメント 直上でJ Stalinさんが示しておられる『実際には、』と『しかし、』から始まる2つのパラグラフに同意します。「Wikipedia:信頼できる情報源#情報源の評価」やそれに続く「オンラインや自己公表された情報源の利用」節で細かく長い説明が試みられていますが、それにも関わらず何が信頼できる情報源で何が信頼できない情報源なのか判然としないのは、情報源の信頼性の評価は情報源ごとや対象ごと、そして多くの場合は個人ごとに異なる事が理由でしょう。情報源の信頼性は100%信頼できる状態と0%信頼できない状態の間のいずれかに存在しているだけであり、私は100%絶対的な信頼性を担保できる情報ソースなどは期待しない方が良いと考えます。とはいえ、99%程度は信頼できるような情報ソースは「信頼できる」として扱われ、0%に近いものはほとんど人が「信頼できない」として扱っているに過ぎないのでしょう。このように個別の情報源の信頼性は、多くの不安定な変数で示されるアナログ量であるにも関わらず、会話や表記上は「信頼できる」か「信頼できない」かの2元論、デジタル量として扱うために相互に混乱しているだけと考えます。また、Wikipediaでは「信頼できる」情報源に基づく記述であっても手放しに表示するのではなく、その付随情報としての出典を常に併記して表示しており、このことからも、最終的な信頼性の判断は記述者/編集者ではなく読者に任せている訳です。編集者間で語られる「信頼できる」という状態も100%確実な情報源である訳では無いのです。蛇足ながら「ノート:朝鮮進駐軍」で『上で挙げられている掲示板には「公刊された出版物」が示されており、それを示して記載することができます』という意見がありますが、加筆者自身が「公刊された出版物」を確認せずに、匿名掲示板に書かれている内容を信じてWikipediaに書き込む行為は到底容認できないでしょう。『それを示して記載することができます』ではなく、「それを元に元の情報を確認して記載することができます」とすべきでしょう。--Shigeru23 2011年10月21日 (金) 13:50 (UTC)[返信]
「公刊された出版物」であることは、検証可能性を満たすために求められる要件の一部であって、そうであればなんでも書いてよいという訳ではありません。ある資料が特定の思想に偏っていないかどうかは、編集者間の議論で常識的に判断されることもあれば、それ自体が水掛け論になってしまう恐れもあります、しかし、問題が指摘されているにもかかわらず、その資料の内容を支持しているより一般的な資料がないのなら、少なくともWikipedia:独自研究は載せないなどでいう「評判の良い」資料とはいえないでしょう。同方針に、ジミー・ウェールズの言葉として「もしあなたの考え方が多数派に属するのであれば、広く認められている参考文献を示してその観点を実証することは容易なはずだ。」とあることにも留意すべきです。よって、その資料に書かれていることが広く認められていると確認できない、つまり、そういった資料にしか見出せない事実であるならば、その事実を否定した資料がなくとも少数派の意見として慎重に扱われるべきです。特に、論争を起こしやすい話題については、中立的な観点についてさらに注意する必要があります。--有足魚 2011年10月21日 (金) 14:11 (UTC)[返信]