遠山憲美

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遠山 憲美(とおやま のりよし[1] 嘉永2年3月1日[2]1849年3月24日) – 1913年[3])は、日本ろう教育者

経歴[編集]

宇和島藩の藩士である遠山師総の二男として生まれる[2]。英語取得のため、横浜に留学していたらしい[2]1877年槇村正直京都府知事に「建議意見之書(盲唖訓黌設立を促す建議書)」を提出する[4]。この建議書では「天下ノ道理ニ就テ之ヲ考ルトキハ盲唖其他ノ廃疾卜雖モ元ト天賦ノ才力ハ皆ナ人同シ」と主張している。同時期に盲聾学校の設立に働いていた古河太四郎とともに、1878年に京都府として学務課勤務を命ぜられる[5]。日本最初の盲唖学校である京都盲唖院の設立に尽力し、1877年に開校すると同校に勤務したが、まもなく古河との対立が生じ、退職。その後は、1879年に大阪模範盲唖学校の設立に協力し[3]1880年には横浜裁判所に出仕していて[6]1882年6月時点まで確認できる[7]。また、1879年に盲唖院設立のために鹿児島へ赴く予定[3]とされていて、1883年8月15日に鹿児島で臨時交詢親睦会が開催された際に、客員として遠山の名が確認される[8]1887年には「愛媛 遠山憲美」が大日本水産会に入会している[9]。また、1895年には東京府知事官房に「遠山憲美 京都」の名前が確認される[10]

参考文献[編集]

  • 愛媛県史編さん委員会 編『愛媛県史 人物』愛媛県、1989年、428-429頁。 
  • 岸博実「遠山憲美」『盲教育史の手ざわり 「人間の尊厳」を求めて』小さ子社、2020年。ISBN 978-4-909782-07-6 
  • 鈴木力二『古河太四郎と京都府盲唖院』〈日本盲唖教育史資料第2集〉1968年。NCID BN07449828 
  • 盲聾教育開学百周年記念事業実行委員会編集部会 編『京都府盲聾教育百年史』京都府教育委員会、1978年。NCID BN13523153 
  • 中野善達; 加藤康昭『わが国特殊教育の成立』東峰書房、1967年。全国書誌番号:67006283 

脚注[編集]

  1. ^ 「のりよし」の訓みは愛媛県史編さん委員会 1989に拠った。
  2. ^ a b c 鈴木力二 1968, p. 1
  3. ^ a b c 岸博実 2020
  4. ^ 京都府教育会 編『京都府教育史』 上、京都府教育会、1940年、505頁。NDLJP:1461842/284 
  5. ^ 「自明治11年至同13年 日記 学務課盲唖学校掛」(鈴木力二 1968, p. 15)
  6. ^ 彦根正三 編『改正官員録』博公書院、1880年12月2日。NDLJP:779293/176 
  7. ^ 彦根正三 編『改正官員録』博公書院、1882年6月2日。NDLJP:779310/182  なお『改正官員録』は翌月にも出版されているが、遠山の名前は見当たらない。
  8. ^ 「記事 鹿児島交詢臨時親睦会」『交詢雑誌』第133号、1882年、19-20頁。 
  9. ^ 『大日本水産会報告』第63号、大日本水産会、1887年、62頁。 
  10. ^ 『改正官員録』(再)博文舘、1895年10月10日、392頁。NDLJP:1083713/215