趙長文

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趙 長文(ちょう ちょうぶん、? - 618年8月11日)は、隋代の人物。

生涯[編集]

大業14年(618年)3月11日に隋の煬帝が死亡すると、5月に越王楊侗が即位し、趙長文は、黄門侍郎に任ぜられ、元文都段達王世充皇甫無逸中国語版盧楚郭文懿らとともに幼主を補佐することとなり、これら七人は「七貴」と称された。

元文都・盧楚・郭文懿は、李密を召集して宇文化及を攻撃させたが、このことは、王世充の不満を引き起こした。元文都らは、王世充を排除しようと企てたが、段達によって密告された。

7月15日、王世充は、兵を率いて洛陽の宮城に攻め入り、太官署中国語版において、盧楚の身柄を拘束し、斬殺した。また、恭帝侗の身辺にいた元文都もまた、斬殺された。正午、郭文懿と趙長文が捕獲され、殺害された。

参考資料[編集]