菅政友

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菅 政友(かん まさすけ、文政7年1月14日1824年2月24日) - 明治30年(1897年10月22日)は、水戸藩士、医師歴史家

生涯[編集]

水戸藩の医師・正則と広瀬コムの子として、水戸酒門村に生まれる。字(あざな)は子干。号は桜廬。名前の菅政友を「すがまさとも」と訓する資料も多いが、正訓は「かんまさすけ」である。

会沢正志斎豊田天功藤田東湖らの門に入り、天保14年(1843年水戸藩藩校多賀郡大久保村暇脩館主事となる。弘化3年(1846年)、国事に座して職を免ぜられたが安政元年(1854年)復職した。

安政5年(1858年)に彰考館員となり文庫役に進むと、明治2年(1869年)に栗田寛津田信存とともに『大日本史』の編纂に従事する。

維新後の明治6年(1873年)には石上神宮大宮司となり、古伝にいう神地から七枝刀や古玉を発掘して考古学に貢献した。

明治10年(1877年)から太政官修史館第2局乙科に籍を置いて修史事業に従事。官制の改定に伴い、帝国大学書記となると臨時編年史編纂掛を命じられた。また、重野安繹領袖とする考証史学の興起にも参加している。考証力に秀でており、『日本書紀』の紀年と長慶天皇即位を否定して同じ水戸の史家と対立した。

明治23年(1890年)年、職を辞して水戸に隠棲。明治30年(1897年)年に没した。享年74歳。水戸酒門村の共同墓地に葬られた。

主な論著は『菅政友全集』がある。

参考文献[編集]

  • 清水正健『増補水戸の文籍』水戸の学風普及会、1934年。
  • 瀬谷義彦『水戸藩郷校の史的研究』山川出版社、1976年12月1日、ISBN 978-4-634-61260-0
  • 国史大辞典編集委員会『国史大辞典』吉川弘文館、1979年3月1日。